富山大会 生徒講評

全体講評

生きること死ぬことについて考えさせる作品がありました。

大船高校の「新釈 姥捨山」は、命をつなぐために死を選ばなければならないという掟と生きたいという本能や死なせたくないという子供の気持ちの葛藤が私たちの胸を締め付け命の重さを感じさせました。

「日の丸水産」は自らの死を覚悟してまで家族を守るという過去の話と、津波によって家族全員の命が失われた事実が交差させながら、痛い気持ちをあえて明るい演技で通しながら最後に泣き崩れることで表現しました。

 家族や友達の絆を感じさせる作品もありました。

岐阜農林高校の「掌」は先生を含め登場人物の多くが不器用な人で、その人たちどうしがぶつかり合いながら友情を深める様子が伝わり、涙があふれた人も多かったです。不器用ながらひたむきに生きようとしている姿に共感を覚えました。

大谷高校「はみーご!」では、他の人に合わせることで自分自身でありづらい4人が、4人それぞれの個性を出し合えて交わることで、自信を回復していく様子がすてきでした。それぞれ自分を出せる場がそこにあって、まさに互いの力でそれが成し遂げられていたと思います。

 本当の自分を隠していつわりの自分を見せていることについて考えた作品もありました。

北海道苫小牧南高校「恐竜れたー」では、現実世界ではいつわりの自分を見せ、メールではなく手紙では自分を出せる二人がお互いに本当の自分に向き合っていく様子が伝わってきました。定時制のクラスメートたちの見た目の派手さとは裏腹な素直な温かさにも救われる思いがしました。

土佐高校「化粧落とし」では、化けの皮をはがしながら本音の自分を出していく過程が、スリリングなほどに間を十分にとりながら、対話の中で表現されていました。女の子どうしの恋愛を題材にしながらも普遍的な友情や真の恋愛について考えさせられました。

「はみーご!」には「来る日も来る日も合わして合わして」という呪文が出てきます。落ち込む時も落ち込めず、普通であってはいけないとさえ思っています。「たち悪い逃げ方」ではあってもある種のいつわりでしか暮らせない状況が伝わってきました。けれど、あの4人が自分でいられるようになることでそこから離れることができたのだと思えて、とてもうれしい気持ちになりました。

 歌やダンスで惹きつけた作品もありました。

砂土原高校「あーさんと動物の話」の弾き語りはとても聞きやすく、心に入ってきました。歌を使って人物紹介をするので飽きなかったり、主人公が引き籠もりながらも本当は人を求めているのだということが歌を通して伝わってきました。押し入れから聞こえて来る歌も切なくやさしい音色で魅力的でした。

「もしイタ」では、バックコーラスだけでなく、吹奏楽の楽器音や効果音などすべてを人の生声で表現し、美しさや繊細さだけでなく圧倒的なパワーを作り出していました。

 ほかにもたくさんの作品で歌やダンスが魅力的でした。

 照明や舞台装置で舞台に引き込まれた作品もありました。

三刀屋高校「ヤマタノオロチ外伝」の舞台は装置とスモークや照明の効果などを駆使して奥行きのある幻想的な空間を作り出していました。特にラスト付近の深紅の紙吹雪や吊りものの布を落としながら赤に染めるシーンは非常に効果的でその美しさに鳥肌がたちました。

It's a small worldのピラミッドのような階段とその上のスペースは、小さな世界を表しながら机や倚子がある場所になったり、何も無い場所になったりしながら上手に使われていました。また周囲の階段もオレンジ色や青色の照明を当てたりしてうまく使われ観客を飽きさせませんでした。

「新釈 姥捨山」の舞台は幕開きから作り込まれた舞台で私たちを圧倒しました。河童が出入りする穴があちこちに仕込まれていたり、落ちる穴が仕込まれていたりして観客に驚きを与えていました。また照明で季節の表現ができていました。雪の布の仕掛けや雪かごから降る雪が感動を誘いました。

 歴史的な時代設定や個人の歴史の作品もありました。

「ヤマタノオロチ外伝」は1300年前の伝説でありながら、豊かさといいながらそれが環境や生活を根本から壊してしまうことや、現代の首相が次々に替わっていくことなど現代にも通じる問題が提起されていました。私たちは十分自分たちのこととしてとらえ、飲み込まれていました。たとえば「おまえら見ているだけかよ」という台詞には客席で立って答えなければいけない気持ちになったという人もいました。

富山中部高校「我歴」は、写真という格好の道具を使って、個人の歴史と世代のつながりの大切さを描いていました。いつ壊れるか分からない「いま」を残して置きたいという気持ちにさせ、「今」を生きようという姿勢が生まれたような気がします。

 現在や未来に希望を持とうとする作品もありました。

「恐竜れたー」のラストシーンで、鳥に進化した恐竜が羽ばたいて飛んで行く様子を主人公とクラスメートと琴音が見上げる姿から、私たちは彼らが成長し明日から歩み出せるであろうという希望を感じられました。

「あーさんと動物の話」では20年間降り続いた雨の中を、見つけた家族の位牌を手に船で乗り出すことができました。家族の死をひきずりながら孤独に耐えていた主人公が、ある程度気持ちの整理がつき現実に向き合うことができたことを観客が実感でき、晴れ晴れとした気持ちになりました。

「我歴」でも、終盤で一雄のカメラが孫の瞳に、帽子は息子の一寿に引き継がれて、世代が変わっても続いていくつながりが見えて、温かさと安心を感じることができました。

 震災、津波、原発問題にかかわる作品もありました。

八千代高校「日の丸水産」は、「先生ずりい」という台詞に代表されるような、津波によって家族すべてを失った主人公の心の痛みと喪失感が届いてきました。同時にそれでも先生や行方不明のままのクラスメートにビデオレターを送ろうとしたり、日の丸水産を再興しようとする健気な姿に心の強さを感じました。

「掌」でも明日香が母の実家で津波に遭い母も家も流され、残されたきゅうりが明日香を求めるというシーンで、この劇全体で描かれている命の鼓動やあたたかさが失われる無惨さを感じました。特にそのシーンで「死体にさわった」という表現が多くの人の胸を打ちました。

「森のひと」では、人間が間違って作り出したものによって人間自身が支配され滅びてしまう皮肉が描かれ、原発の問題が連想され、日本の現在の状況に非常に不安を覚えました。

青森中央「もしイタ」では、家族や仲間を失った投手がその悲しみ故に残った自分を責めていたのが、マネージャーからの自分の悲しみからわき上がる言葉の力によって野球を楽しむことができるようになる様子が描かれていました。笑いや希望に富んだ劇で私たち講評委員たちは元気づけられましたが、実際に被災した人々がどう感じるのかという疑問も討論には出てきました。

 思考や学びに誘う作品もありました。

作新学院高校 It's a small worldは、強盗、老夫婦、戦争、家族、のらねこなどの劇中劇で、生存権、老人問題、戦争、DVなどの社会問題について考える劇で、観客を自然に学びや思考の世界に誘っていました。

法隆寺国際高校 「森のひと」は、一見笑いに満ちたお遊びの世界に見えながら、次第に進化や技術などについて考えさせられ、現在の社会に不安や恐怖を抱きました。これから広がる未来がどうなっていくんだろうという思いに駆り立てられました。

「化粧落とし」は、人と人の関係や愛について、普段私たちが思っていることを一度壊されるくらい考えが徹底され、真実の関係とはどんなものか深く考えることができました。役者たちは間をとりながら体を震わせるほどに気持ちを通わせる演技をし、それによって私たちが彼女たちと一緒にその場にいて自分や相手のことを考えているような気がしました。

 最後に、今年も公開講評となりましたが、その場にたくさんの方々が来てくださいました。聞いてくださってありがとうございました。講評活動全体を通して、私たち生徒講評委員は出場校のみなさんの劇から、たくさんの思いを受け取りました。熱意、苦労、感動、様々なものを共有できたのではないかと思っています。この三日間、本当に楽しかったです。ありがとうございました。そしておつかれさまでした。

担当講評委員
生徒講評委員長
     小林 海桜富山県立富山高等学校

生徒講評副委員長 中井 綾音富山第一高等学校 富山県
           坂野 佳那 (富山県立小杉高等学校)
           上坂三希子(福井県立武生高校)

上演1 神奈川県大船高等学校「新釈 姥捨山」

幕開きと同時に大掛かりな舞台装置が目に飛び込んできて驚いた。歌あり踊りありのミュージカルのような演出で始まり、生演奏の音楽や効果音も相まって、舞台全体からあふれるエネルギーに、あっという間に引き込まれてしまった。一方、衣装などには細かい工夫が見られた。着物の裾がぼろぼろであったことや足の裏まで汚してあることで、貧しさをよく伝えていたのもその一つである。照明も、秋には秋の光の色、冬には冬の光の冷たさといった季節感をうまく表現していた。

 貧しい寒村を舞台とするこの作品の中では、年老いた自分の親を山に捨てるいわゆる「姥捨て」のみならず生まれて間もない赤ん坊を捨てる習慣や、食べ物を盗むと村の掟によって一家全員生き埋めにされてしまう 「根絶やし」など、生きるための現代では考えられない慣習が描き出されていた。

 「姥捨て」は、70歳になったら掟に従って老人を山に捨てる慣習である。村人はこれを「お山に行く」と呼び、達吉の母おりんも、その年齢を迎えている。しかし、この慣習のとらえ方も登場人物ごとにさまざまであった。死ぬことへの恐怖はありながらも“命をつなぐために”お山に行く決心をしていたおりん。自分を情けないとは言いながら死ぬことへの恐怖心をぬぐい切れず逃げようとする銀二。掟に背いてでも母おりんを生かそうとする達吉。掟を守ることが家族の命を守ることになると考え、父銀二を捨てようとする勘吉。二組の親子の考え方の対比が表現されていたが、それぞれの考え方に説得力があり印象的であった。

 この作品には、原作「楢山節考」には登場しない河童たちが登場する。口減らしのために捨てられ殺された赤ん坊の化身とも見えるこの河童の存在は印象的であった。河童たちは作品のナビゲーターとして作品世界を語りによって導く役目を担う。また、彼らが死にゆく人々に寄り添う姿は、その死がいかにむごいものであったとしても村の人々を見守る優しさがにじみ出て、観る者に救いを与えていた。

現代とはまったく異なる環境や風習の時代を“今”描き出すことに演じる側のメッセージが込められていた作品を通して描かれる親子愛は、親子関係が希薄になる現代、親の大切さや存在のありがたさを痛感させられた。子供たちがいもを取り合ったり、「根絶やし」にした一家の食料を大人たちが取り合ったりする姿には強い恐怖を覚えたが、極限状態の中での人間の食べ物と生への執着が伝わってきた。飽食の現代を生きる私たちへの批判とも見えた。

おりんはハナが子供を産むことを許し、生まれてくる新しい命は、ラストシーンでの雪山の中で死にゆくおりんと対比的に描かれる。それは、皮肉だとも感じられる一方でさびしさと温かさとが互いに引き立て合っているようにも感じられた。

命をつなぐための不条理ともいえる掟に翻弄され、生のために死を選ばざるを得ない登場人物の姿に、恐怖にも似たやるせなさを感じて涙するとともに、私たちも持ち続ける生死の因果をつきつけられる舞台であった。

担当講評委員
東 裕希子(兵庫県立神戸高等学校)

水無瀬弘奈北海道登別明日中等教育学校
今村 優希(熊本県立第一高等学校)

上演2 富山県立中部高等学校「我歴」

人間的な絆を感じつつ、少し物悲しくなった。一人の男の人生を追っていく中で出てくる出来事から「家族とは何か」というのを表現していた作品であった。

一つ一つの物語は、ネガとポジという二人の人物が一人の男の人生を追っていくことで進んでいく。この二人が写真を取り上げながら場面が進んでいく。親との別れ、失恋、新たな出会い、大切な人との死別を写真で切り取る。家族とふれあいながらカメラを受け継ぎ想いを繋いでいく。

芝居の構成としては、時代を順番にみせていくのではなく、様々な時代を照明も工夫しながら分かりやすく表現しており、観ている人を楽しませる工夫がみられた。

舞台装置は、シンプルな直方体の箱だけであったが、それを生かして椅子に使ったり、オブジェクトのように使ったりして役者を生かしていた。また、舞台裏は階段状の段差を作って、高さを生かし、カメラでの撮影シーンを効果的に表現していた。照明もシンプルだが色などをそれぞれの時代にあわせてリンクしており、時間経過が伝わりやすくなっていた。それらの装置を存分に生かす役者の演技力の高さにも驚かされた。特に年老いた一雄の演技は、観客に背を向けながらも背中から哀愁が漂っていたりした。

ネガとポジという名前はカメラで使われる用語であり、またネガティブとポジティブという二人の性格を表しているという意見があった。カメラの「眼」という単語がよく使われており無機質なカメラに意味を持たせた。ネガとポジがカメラという視点を通して客観的な立場から舞台の流れを作っていた。

タイトルの「我歴」は、一雄の歴史というものを表していると同時に、壊された町や建物の「瓦礫」というものも表していた。ポジのセリフで、「君たちが瓦礫と呼んでいるものは、誰かにとって、宝物だったものだったんだ。いや、今でも、宝物なんだ。」また、「彼がいなくなってしまっても、彼の撮った写真が記憶のスイッチになる誰かが、いるかもしれない。僕達のことを「宝物」と呼んでくれる誰かが、いるかもしれない。」というのがあった。そこから、瓦礫と呼んでいるものが、誰かにとっての宝物である、ということに気付かされた。

 写真は人生を切り取った一部であり、記憶を呼び起こすスイッチとしても扱われている。この物語を通じて講評委員の中では「写真写りが悪いので写真を撮ることが嫌いだった。でも今を残して後から大切になるかもしれないから撮ってみたくなった。」「私たちは一瞬一瞬を生きている。特別なことではなくありふれたことでも今を生きる大事さを知った。だから写真を撮りたい。」など写真や生きることに対する考え方にこの劇から影響を受けた。

写真の力や家族の繋がり、記憶を通じて人間的な温かさが感じられ、多くのことを考えさせられる劇であった。

担当講評委員
池田  翔(新潟県立新潟江南高等学校

坂田 琴音(山口県立下関南高等学校)
中山 桐弥(瓊浦高等学校 長崎県)

上演3 宮崎県佐土原高等学校「あーさんと動物の話」

人が動物のように餌付けされているシーン、白い服を着た謎の男・猫山、鳴き声だけが登場する謎の動物ペックー、突然聞こえたかと思いきや突然途絶える雨の音、物語の前半は謎だらけだった。しかし、後半でその謎の多くが明かされることになる。

大人になっても夢を貫いたり就職をするわけでもなく、ただ誰に聞かせるわけでもない歌を歌って引きこもり生活を送るあーさん。彼を心配して、次々と訪ねてくる家族。しかし、終盤で彼らの位牌が発見されることや劇中に発せられた「20年前」「事故」という言葉から、家族はすでに亡くなっていたということに気づかされる。あーさんは20年前の状態を引きずって生きてきたのだ。その時の心の拠り所が動物達だった。あーさんの台詞中に 「自分が好きになったものが自分から離れていく」とあったが、ペットは餌付けをすれば必ず自分の元に戻ってきてくれるという所に、安心感を求めていたのではないかという意見もあった。

この芝居の鍵を握るのが雨だ。雨は、物語の終盤までずっと降り続いている。雨が降り続いていることは、20年前で止まったあーさんの気持ちを表している。他にも雨は、生きていく上での障害や苦しみ、涙といった負のものを象徴しているのではないだろうか。そして、雨宿りは一時的に現実から逃げることであり、雨があがることは希望を匂わせ、長年降り続いた雨で出来た海を船で進むことは、逃げ出したい現実を乗り越えて前に進んでいくことを表しているのではないか。

猫山の存在は、一体何なのかということが話題になった。彼は、歌にのせてコミカルに動いたり、あーさんの暴走を止めたり、後押ししたり、どこにでも現れて気づいたらいなくなっていたりと、あーさん以上に気になる役柄だった。彼についての解釈は、あーさんが子どもの頃から連れ添っていた猫の幽霊だという意見と、猫山とあーさんは一心同体のように感じられたことから、これは心の中の葛藤ではないかという意見があった。

男女で視点が異なるのが面白かった。男子陣は、告白シーンで彼女の家の近くの公衆電話から電話をかけるというような恋をした時の周りを見ずに突っ走る感じがリアルだという意見で一致した。女子陣からは、男は過去を引きずるイメージがあるとか、将棋といったゲームで大事な賭け事をしているのが男性的だという意見が出た。

部屋の装置を回転させることにより、部屋と押し入れの中、および両方のドラマを観せる工夫がなされていた。

また、音響と照明の息がぴったりで、同時に切れることで舞台を引き締めていた。場面転換時には、装置を回転させる作業を役者が担当していた。その動きの人間味の無さと青い照明により、見た目も美しく、雨や人がいないということを想像させるものになっていた。また夜を思わせる照明や最後の晴れやかな青空を思わせる効果なども丁寧に作り込まれていた。

ギターを弾きながらのあーさんの歌は、声が伸びやかで曲も柔らかく、私たちの心に気持ちよく響いてきた。「生きることは歌うこと」その言葉を母親から聞いた後、あーさんが「歌っていこう」と何度か繰り返していたことがとても印象的であった。最後の晴れやかな顔で歌うあーさんから、苦しいことがあっても現実を乗り越えて生きていこうとする希望を感じることが出来た。

担当講評委員
河野 雅子(香川県立高松高等学校) 

坂野 佳那(富山県立小杉高等学校)
湯下 直明 (岐阜県立郡上北高等学校)

上演4 北海道苫小牧南高等学校「恐竜れたー」

 舞台は高校の教室。主人公のたくやは定時制の高校に転校してきたばかりで、地味でクラスでも目立たない存在。一方、全日制の琴音は、たくやと同じ教室の席を使っていた。ある時、琴音が机の中に忘れてしまった父親への怒りを書いた紙にたくやが返事を書いた。そこから二人の文通がはじまる。

始まりとともにスモークと赤い照明と盛大な音で観客を舞台に引きつけていた。それにより恐竜というイメージが強調されて、手紙を書いているたくやの見栄っ張りさがタイトルである「恐竜れたー」につながっていくのではないか、という意見が出た。

 たくやの性格を見栄っ張りで体ばかり大きい恐竜のように例えた表現が巧く、「絶滅」「進化」と恐竜から連想させる言葉を鍵に主人公をさらに深く見ることができた。「絶滅」は自分の居場所が消えること、「進化」は変化する環境に適応するということではないか、たくやと琴音がこれから鳥のように飛び立つという意味が込められているのではないか、などの意見が出た。

 他に、メールをあえて使わずに手紙の良さにこだわる琴音に共感する意見が多く出された。手紙は素直に想いを伝えられるという演出が丁寧にされている。父親に対する想いを「お前なんか死んじまえ」という言葉で書いた琴音の手紙は、それを見ていない自分たちにも怒りの感情が伝わり、震える字の「助けて」には恐ろしさや彼女に精神的危機がおとずれている様子が自分たちにも伝わった。

 スタッフワークとしては、上手の舞台装置の校舎の窓からの光と下手の電灯、さらに照明を上手く使い、場面転換を綺麗で、かつスムーズにできるように工夫されていた。特に上手の校舎については、多数の意見があった。 「登場人物にのしかかるようにレイアウトされ主役二人が学校に感じる圧迫感を表現している」「鳥に進化して飛び立つ前の校舎を見上げているたくやを表現しているのでは」などという複数の意見があった装置の配置や音響のBGM、日本語歌詞入りの曲の多用など、どこか映像作品らしい演出が見られ面白いという意見があった反面、知名度の高い曲を中心としていたため劇から意識がそれてしまうという意見もあった。他にも琴音の着信メロディについて、「曲調が明るすぎる」「BGMと勘違いする」と違和感を示す意見も少なくなかった。

 全日制と定時制、両方のクラスメイトたちも個性的で、全日制の琴音、マリ、シオリのやりとりの中にある有無を言わさぬ物言いには恐ろしさを感じた。それに対して定時制のクラスメートたちには人間的な温かみを感じた。また、全日制と定時制の間の溝が他人事とは思えず、重く受け止める人もいた。サキはたくやに対して恋心を抱くような伏線がちりばめられ細かいところもしっかりと表現されていたことから健気で可愛いという意見が続出し彼女を応援するような意見も多かった。

 ラスト、たくやが決心したように恐竜のマスクを鞄の奥に仕舞い、恐竜の幻影が飛び立つ様子をみんなで見上げながら、琴音にも知らせたシーンは、たくやが一緒に殻を破り一歩踏み出したように感じられ、私たちは共感を覚えた。
担当講評委員
児玉 健吾(同朋高等学校 愛知県)

上坂三希子(福井県立武生高等学校)
小林 海桜(富山県立富山高等学校)
舟橋 美里(三重県立飯野高等学校)

上演5 千葉県立八千代高等学校日の丸水産(HINOMARU FISHERY) 〜ヒミコ、日野家を語る〜

 緞帳が上がり、校内文化発表会の出し物として歴史研究部部長、歴女、ヒミコこと日野光子の一人語りから始まった。音響で強引に観客の拍手を鳴らしたり、客席にいる先生や友人にしつこく話しかけたりする様子が面白く、これから何が始まるのだろうとドキドキした。まるで客席に先生や友人がいるような話しぶりに惹きつけられた。

古文書に出てくる日野家の歴史を劇中劇として演じていた。ヒミコの曾々祖母冨子は網元のお嬢さん。末(すえ)と止(とめ)はもっとも貧しい漁師の娘であり、網元から漁業権をもらっているため冨子には逆らえなかった。「女郎」「汚い」などと罵倒されても、怒るどころか逆らったことで謝るしかない立場の違いに、劇中劇とわかっていても昔の身分の違いを感じ、胸が締め付けられた。

冨子の自分勝手な振る舞いと姉への侮辱に耐えきれなくなり、冨子を崖から突き落とした止の無邪気な笑顔や冨子から奪った着物を差し出し「姉ちゃんこれ着て」と言う言葉に、姉を思い慕う妹の愛情以上に、幼い子供がもつ純粋さゆえの怖さを感じた。末が止に対して、怒らないで逃がしてやろうという姿勢や自分が犠牲になることで家族を助けようとするところに、今の世にない家族の思いを感じた。

家族のために命を投げ出す決意をした末。死ぬ前に望みだった衣装をつけ、深い思いをのせて踊る姿に女性のまっすぐな思いや強さ、美しさを感じた。

 いざ死のうとしたときに、突如おそった「明治三陸大津波」。生き残った末が、その後冨子を名乗り、日野家復興のために尽力し、現在の日の丸水産があるとヒミコは自信満々に語る。しかし、その日の丸水産も「3.11」の津波で、施設・家族すべて流されたことが明らかになる。はじめにまるで客席にいるかに思えた先生も友人も実はここに居らず、この舞台は彼らに宛てたビデオレターであったという展開に驚愕し、涙が止まらなかった。

ビデオレターを送るきっかけは、ヒミコの後悔の気持ちからだった。自分の家族はまだ見つかっていない。先生の奥さんの遺体は見つかった。その奥さんの葬式で「先生ずるい」と叫んでしまったヒミコ。津波ですべてが失われてしまい、言ってはいけないけれど言わずにいられない気持ちが伝わってきた。

照明は、垂らした布に下から当てたオレンジの明かりで劇中劇を表し、上から当てたブルーの明かりが津波を効果的に表していた。それに音響効果も相まって実際に津波が迫ってきているような恐怖を感じた。

ヒミコの最後の台詞「絶対忘れない」は、亡くなった人々だけではなく津波を忘れないという思いにも掛けられていた。また、死を覚悟した末が止に言った「海の水になってざっぱんざっぱん戻ってくる」と言う台詞は最後に家族を失ったヒミコへの言葉として響き、ずっとそばにいるという暖かさとして受け止められた。最後は孤独で寂しい終わりではなく、明治大津波から復興した末のように、ヒミコもここから立ち上がっていくという希望を感じた。この劇を観て、311の地震について委員からさまざまな話がでた。直接の被害もあるが、残された人の心にも大きな痛みを残した。被災地や近県の人は震災に傷つき、影響のない県の人は何もできないことに無力さを感じる苦しみを感じたりしている。

震災をストレートに舞台にした八千代高校のメンバーはどんな気持ちで取り組んだのだろうか。忘れないように舞台にする、辛すぎて観るのも嫌だという様々な人たちがいる中ですばらしい舞台を観せてくれた。
担当講評委員
橋ひとみ(山形県立置賜農業高等学校

岩原 史歩(石川県立野々市明倫高等学校
中井 綾音(富山第一高等学校 富山県

上演6 岐阜県岐阜農林高等学校「掌 〜あした卒業式〜

卒業式を明日にひかえた農業高校の夜の体育館。農業高校の生徒男女四人が、退学した明日香との「卒業式に一緒に桜を見る」という再会の約束を果たすため、そこに忍び込んでいた。しばらくするとブドウと牛とキュウリの精が現れ、彼らの「たなごころ」にお礼を言いにきたと言う。精霊達曰く、手には心があり、その手の心を「たなごころ」と呼ぶ。

 精霊達がもたらした回想によって、実習服をきた生徒たちがなだれ込んでくる。以降、展開される彼らの高校生活は、農林高校としての実際の活動が反映された上演校ならではのものであろう。農業高校には、いろんな事情の生徒が入学してくる。だんだんと分かってくる高木やいつも遅刻している明日香の家の背景。自分の家庭のことを素直に語りだした明日香とみんなの心が一つになっていく。明日香を含め、クラスみんなで協力してつくりあげた文化祭のねぶたのシーンでは、役者達の演舞がとても力強く、エネルギーが伝わってきた。また、ねぶたのセットは本格的で細かいところまで工夫がされており、キュウリのビニールハウスも立体感が上手く表現されていた。

  太鼓が、ねぶただけではなく作品の随所で鳴らされる。それは、植物や動物の「命の音」でもある。精霊達の語りの最初の方で鳴らされる太鼓の音は、植物にも動物にも命や感情が宿っていることを表していた。

 そして、逃げるように東北に引っ越した明日香は震災に遭う。

 体育館の近くを通る電車の明かりが印象的であり、去る明日香と駅のホームをあえてシルエットで表すことにより、表情を想像できるように演出されていた。さらにキュウリのビニールハウスの場面での照明と動作は、幻想的でありながらどこか恐ろしく、命の儚さや、津波への恐怖感をかきたてるものであった。キュウリのビニールハウスに流れ込んでくる瓦礫を「看板の死体」「玄関の死体」「町の死体」とキュウリの精に語らせることで、そのどうしようもない理不尽さが伝わってきた。

 主役となる生徒達以外にも魅力的な大人がいた。彼らの先生である。その一見理不尽に見える言動には、生徒達への愛情が感じられた。

 最後、川上の携帯に‘春よ来い’のメール着信音がなる。川上は「遅いよ、明日香」と言い、彼らは見上げる。このシーンに涙した講評委員も多かった。

  劇中繰り返された「平等」という言葉が胸に迫る。それぞれの生徒たちが抱える事情は、「平等」という言葉でひとくくりにできるものではない。そしてついには、津波に襲われた明日香、変わらぬ生活を送り続ける川上たち。高木の「何が平等だよ」という言葉は、震災と津波の被害を目にしたすべての人々の思いである。

担当講評委員
今村 優希(熊本県立第一高等学校)

水無瀬弘奈(北海道登別明日中等教育学校
東 裕希子(兵庫県立神戸高等学校)

上演7 土佐高等学校 (高知県)「化粧落し

 女性にはもちろん、男性にとっても、友人との関わり方や人との関係性について考えさせられる劇であった。

 舞台は卒業式後の教室。卒業式が終わり、あや、ゆいこ、きょうみ、ちひろという女子高校生4人が高校生活を過ごした教室に残っている。そこで他愛もない会話が繰り広げられる。付き合っているきょうみとちひろを見ていたあやは様子がおかしい。きょうみとちひろの関係に異を唱えたあやは、教室を飛び出していってしまう。あやを探しに行くゆいこ。ちひろは、きょうみとの今の関係を「好きかどうかなんて分からないよ。」と呟く。あやは教室に戻ってきて仲直りをし、最後には障壁を乗り越えて4人は新たな道を歩んでいく。

 この劇は、ガールズトークの流れで話が進んでいく。ただの台詞の掛け合いではなく、まるで普段の日常生活を切って取ったように自然で、全く違和感の無い会話であった。また、会話をしていないときでも、表情や動きで感情を表現しており、それが会話の雰囲気を引き立てていた。

 演出上、特別な照明効果や音響効果があったわけではない。それゆえに、このお芝居が役者中心で60分間うまく進んでいったのは、役者4名の技量が高かった点とキャラクターがしっかりと確立されていた点が大きい。台詞の掛け合いの中での「間」も絶妙で、観客を常に芝居に惹きつける工夫ができていた。

 多くの講評委員が共感を持てたシーンが多かったのもこの芝居の特徴の一つ。例えば、劇途中であやが出て行った時にゆいこが追いかけるシーンでは、何故追いかけるのかと問われ、「友達だから」と言って行く。そのとき、「うわ今あたし超ハズいこと言ったじゃん!いってきます」と照れ隠しをする。その感情のゆれに共感を持てた。

  4人の女性の重い本心が交錯する様は本当にどろどろとしていて、リアル感があった。また、女性の講評委員からは「女性独特の依存が現れていた。」という意見が多く、また、きょうみのちひろに対する感情に共感を持てたという意見も多かった。さらに議論を展開していく中で、女性に関する意見だけではなく、男性に関する意見が出てきた。この芝居にもあるように、女性は友人を作る際、「相手に精神的な部分で依存」を求める。逆に男性は、「何か共通点を持った相手」を友人と定めるという意見がでるなど、男女の友人を作る上での相違について、議論が進んだ。友人を作ることや人間関係を形成していくことの大切さを考えることもできた。

「化粧落し」という題目は、4人が表面的に被っている仮面を剥ぎ素顔をさらすことだろう。この劇は、素顔であっても認め合い、仲間の繋がりの大切さを私たちに教えてくれた。

担当講評委員
中山 桐弥(瓊浦高等学校 長崎県)

池田  翔(新潟県立新潟江南高等学校
坂田 琴音(山口県立下関南高等学校)

上演8 島根県立三刀屋高等学校「ヤマタノオロチ外伝

古事記の神話的世界をモチーフに、豊かさとは何か、現代に訴えかける劇だった。国一番の正直者のオトと幼なじみで嘘つきのヤマタ。そこに異なる国の少年がやってきてオトに助けられ、オロという名前を与えられて兄弟のように仲良くなっていく。それがきっかけでヤマタとオトの関係に変化が生じた。

 神話的世界を作り出すために、様々な工夫がこらされていた。装置は、集落を思わせる3つの台と、上から吊された白い布が古代の村の神秘的な雰囲気を出していた。照明は、最初からスモークが多く使われて効果が高められ、村の奥行きを感じさせたり、映し出される人々の影が、場面によって怖さなどの雰囲気を出していたり、神秘的なものを感じさせるなど様々な意見が出された。音響では、鉄を打つ音が最初は発展の音に聞こえたが、劇が進むにつれ滅亡に近づく音に感じられて、恐ろしさを感じるものに変わっていった。また、強い印象を受けたのがダンスのシーンだ。人の手を組み合わせ、耕して芽吹いた木々になったり檻になったりする演出方法に驚かされた。大人数でリズムに合わせて耕したり、ハガネを作ったりする動きの美しさに衝撃を受けた。また、音響だけでなく、回文や韻を踏むなどの言葉遊びが多いことでも、長老の威厳やオトの存在、古代の神秘さなどが印象づけられるようになっていた。

 「豊かさ」とは人にとって、一度手にしたらよりたくさん求めたくなるもの、尽きぬ欲のように感じた。

オロが伝えたハガネは、木の道具による農耕を鉄の道具に変えることで豊かさをもたらしたが、それだけではなく、武器としての力を人々に与えた。戦を起こして他の国の豊かさを奪えば良いという発想までもたらすことになった。その戦を止めるため、ハガネを伝えたオロをオトが殺そうとするシーンがある。その動きには、ためらいを感じた。弟のような存在のオロを殺したくないというオトの心情が表現され、観ていて「やめてくれ」と叫びたくなるような悲痛さ、苦しさが伝わってきた。

 オトがヤマタを追い詰める場面でヤマタが言った「誰も言わないから代わりに言った」「お前ら見てるだけかよ」という言葉には、国を思うヤマタの強い思いがあふれていた。「見ているだけか」という台詞に、自分から行動しようとはせず、周囲を見てから行動したりすることがある自分達の行動について心当たりがあり、ハッとさせられた。

 オトはヤマタを殺してしまう。その姿には、友人を手にかける悲しさや、そうすることでしか事態を止められなかったのかという空しさを感じた。その上で愚か者のオロとして自殺するオトは、自分に代わってオトとして生きるオロに、間違いを続けるなというメッセージを残したのではないだろうか。

 豊かな物が多い現代だからこそじっくりと観て、考えてほしいと思えるような劇だった。

担当講評委員
湯下 直明(岐阜県立郡上北高等学校)

河野 雅子(香川県立高松高等学校)
坂野 佳那(富山県立小杉高等学校)

上演9 作新学院高等学校 (栃木県)It's a small world

女子高生3人の会話から生まれた素朴な疑問から、哲学的な命題や社会問題といった大きなテーマへと話がふくらんで展開されていくストーリーであった。他愛もない話に興じながら、彼女たちがふと垣間見た「心のかけら」を思い思いに紡いでいく。それは、妹の病気を治すために強盗をはたらいた兄の話、夫婦の互いを思いやる話、戦争に父を送り出す話、家族の明るい日常の話、野良猫の話の5つの劇中劇で表現された。

 どの話も形は違うが家族のお互いの思いやりが感じられるという点が共通している。しかし、「半径3m以内に幸せはある」「友達って大切だね」という台詞から、”家族は距離が近いからこそ気付かない”、”いつも側にいる”、”だけどいつまでも一緒にいられる存在ではない”、そんなメッセージが伝わってくる舞台であったという意見が出た。”いつもは鬱陶しく思ってしまう親も自分たちのことを考えて叱ってくれていたりしているのだ”とこの劇を観て改めて気付くことができた。「何が良くて、何が悪いのか」「あんたが好き、でもみんなが好きとは限らない」など何気ない会話の中に思春期らしいナイーブさが見られた。さらに、戦争の話のあとにあった「これが私たちの当たり前の生活」という場面においても、家族の存在の重要性と結びつけられる。それに加えて、男手も物資も不足していた戦時中の生活と物が溢れかえっている現代の生活との対比を表しているとも考えられた。

 一方、箱の中という閉鎖的な空間に閉じこめられた猫たちが「外に出して」と自由を訴える場面では、自由の意味について考えさせられた。

 舞台装置は大きなピラミッド状の無機質な階段で、段差は不規則であった。それは人の考えは様々で、誰かと同じ考えである必要はない、ということを表しているのではないかと思った。上部は6畳程度の広さを持った小さな部屋として用いられ、そこに置かれた3個のボックスが机やいすなど色々な用途で使われて、演出効果を上げていた。

 3人の個性がよく表現され、終始変わらない衣装で劇中劇での役をしっかりと演じ分けていた。特に、クロッチのコミカルな動きは観客の笑いを取り、猫の動きはしっかりと観察され、表現できていた。人権問題、老人問題、戦争などを扱っていると聞くと重たいイメージがあるが、3人があえて明るくコミカルに演じていたことに演技力の高さを感じた。

 照明は、暗転がなくても、色を赤や青に変化させることによって場面転換が行われていたことの斬新さに驚き感動した。オレンジの照明を用いた戦争の場面では、側面がカゲになって陰影がリアルに描き出されていたのがとても印象的だった。

 劇のタイトルでもある「It's a small world」は、半径3mの当たり前に存在する幸せな空間と考えた講評委員もいた。

 脚本の最後にある「結論なんて出せなくても、一人一人が考えることが大切なんだよ。目を背けずに向き合うってすごく大切なことだと思う」というアヤの台詞はこの劇のすべてを物語っているのではないかと思った。

担当講評委員
舟橋 美里(三重県立飯野高等学校)

児玉 健吾(同朋高等学校 愛知県)
上坂三希子(福井県立武生高等学校)
小林 海桜(富山県立富山高等学校)

上演10 奈良県立法隆寺国際高等学校「森のひと

幕が上がり、赤い照明で背景が染められた中で、一人の男によって次々と人が殺されていくという恐ろしい光景から始まる。殺される人々の恐怖でゆがんでいる顔は、男の殺人がよりリアルで恐ろしいものに感じられ、これから何が起こるのだろうと思わされた。

 しかし、その後に聞こえてきた鳥の鳴き声や上から吊された猿のシルエット、緑と青の照明で染められた背景などが森と青空を想像させる場面になる。そこは妙子の会社の農場で、いきなり変わった演出に引き込まれた。オランウータンと妙子の会話から、冒頭の殺人は妙子の持つ本である『モルグ街の殺人』の内容をそのまま表していたことがわかる。妙子は独り言を言っているつもりなのに、オランウータンは答える。まるで本当に会話しているように見えた。オランウータンは、実はずっと昔、妙子と森の中で一緒に暮らしていたと言う。

 農場から一転、教室に変わる。人間の姿をしているがオランウータンの上野森男と、転校してきた妙子。場面は変わっても森男と妙子の関係は保たれているので受け入れることが出来た。役者みんなが楽しそうに動き回り、ボイスパーカッションやラップなども取り入れ、辞書萌えのシーンなど高校演劇すれすれの色っぽい表現で、客席を沸かす自由で面白い演出が凝らされていた。表情やしぐさなど思い切りのいい演技が笑いを巻き起こし、圧倒された。場面転換では照明がピンクになったり、明るい音楽が使われたりと、学校の楽しさが伝わった。ただし、「人数が少ないから出席簿を持った人が先生役だ」と敢えてネタばらしをする手法を面白いと感じる人もいれば、「これは高校演劇だよ」という言い回しの多さに、やり過ぎという意見もあった。

 人間の進化について考える授業の中で、人間が進化した先にはアンドロイドだと言うくだりがある。言葉がなくとも電子データで相手のすべてを互いに理解できることを進化だと言う。さらに人間を電子データ化して、全員が一つになろうとする。この場面で、森男は「自分が自分でなくなるのは死ぬのと同じだ」と叫び怒りを爆発させる。一つになろうとする儀式のように積み上げられた箱の中に吊された明かりが美しく印象的で、また、プロジェクターで映し出された渦に、暴れる森男の影が映り、幻想的で迫力があった。

 最後、荒れ狂う森男の怒りを鎮めるため水ガラスの中に封じ込めるシーンは圧巻だった。青い光に照らされた森男は美しかったが、怒りが鎮まるまでの20万年の時の長さや、墓堀の使う外国語、「海から来た」という妙子の言葉は、福島以前のチェルノブイリ原発事故や、津波を連想させた。

 妙子は森男を20万年後まで見守るために、最新の技術と薬の力で敢えて自ら木になることを選ぶ。植物になるということは退化だとする意見、周囲の環境に合わせるためにその道を選んだということは、進化ではないだろうかという意見、さらには森で一緒に暮らした昔に戻ることだとする解釈も出た。

 議論し尽くせなかった部分も残るが、現代の様々な問題について考えさせられる作品だった。   全体を通じて、人間が進化するとは、科学の進歩とは何なのか考えさせられた。便利さを求めて人間は技術を進歩させたが、手に負えないものまで作ってしまったのではないか、技術の進歩だけを求めることが本当に正しいのか、という意見が出た。

担当講評委員
岩原 史歩(石川県立野々市明倫高等学校

高橋ひとみ(山形県立置賜農業高等学校
中井 綾音(富山第一高等学校 富山県

上演11 青森県立青森中央高等学校「もしイタ」 〜もし高校野球の女子マネージャーが青森の『イタコ』を呼んだら

 最初から最後までインパクトのある、観客の心を掴んで離さない劇であった。舞台セットは何一つ無く、照明も音響も使わない切り詰めた舞台は、「どこでもやれる」という表現の幅の広さがあり、とても驚かされた。

 野球部が甲子園を目指す話と「イタコ」との融合は斬新であった。エリカは8人しかいない弱小野球部のマネージャーになる。被災地から転校してきたカズサは亡くなった野球部員に罪悪感を感じながらも、熱意のあるエリカの説得で9人目の部員になる。

 小道具を一切使わずパントマイムのみで表現することで、観客の想像力を巧みに利用していた。ボールを追う目線や、グラウンド整備の道具を持つ手の動きは、それらが本当に存在するかのように見えた。自分たちの声で効果音やBGMを作り出すことで、情景がすぐ目に浮かんできた。また、甲子園に出場できるかどうかの緊迫した試合のシーンではスローモーションを使うことで、ドラマチックに表現されていた。場の雰囲気だけではなく時間さえもコントロール出来ていて、その役者一人一人の高い演技力と、工夫された演出に興奮を覚えた。たくさんの登場人物たちが出てくるが、衣装は全員黒いTシャツに統一されていることで、役を固定せず柔軟に演じ分けが出来る効果があった。

 場面転換はいろんな考慮がされていた。弱小野球部である彼らが次々と試合を勝ち上がる度に、驚き興奮する人たちが一人二人と次第に増えていく。場面を区切ることなく、県大会の準決勝までの時の流れを表現していた。また、次のシーンにつながる台詞を先に入れることにより、スムーズに話が展開していった。

 カズサは修行をして、自ら「イタコ」になり、自分の体に霊をおろし、試合を勝ち上がる。伝説のピッチャーの霊が投球していたからなのだ。しかし、他の部員はカズサに頼るだけではなく、地獄のような厳しい練習をしていた。その熱血な姿に高校生のパワーが溢れていた。また、友情や恋愛といった要素も含まれていて、青春している様子が高校生らしかった。オーバーな青春ドラマのような演技に、何度も会場が笑いで沸いた。

 最終的に甲子園は行けなかったが、ラストでは野球部全員が「イタコ」となり、亡くなってしまったチームメイトの魂を体におろす。「良く頑張ったな」という台詞は、カズサが野球をやることを暖かく後押ししているように感じられ、涙を誘われた。野球をしたくても出来ない人のことを想ってやらないより、出来る人こそやるべきだという前向きなメッセージにも受け取れた。一方、亡くなってしまった方と簡単に再会できてしまうという所はリアリティーが欠けるのではないかという意見も講評委員の中から出てきた。

 無理に笑いを取るのではななく、自然に観客を笑顔にさせ、楽しく感じさせることで、元気になれる作品であった。

担当講評委員
水無瀬弘奈(北海道登別明日中等教育学校

東 裕希子(兵庫県立神戸高等学校)
今村 優希(熊本県立第一高等学校)

上演12 大谷高等学校(大阪府)「はみーご!

 ある夏の日、五木はさびれた公園に、里田、霧島、中野を呼び出す。初対面の4人の共通点はクラスで「はみられている」、つまり無視されていること。個性的な4人は「はみーご」として友情を築きあげる。夢の世界をはさみ込み、葛藤し、一緒に過ごしてゆく中で、本当の友達とは何か、人とどのように関わっていけば良いかなど、それぞれの思いを巡らせる。共に笑い、共に泣き、多くのことを考えて成長してゆく。はみーごたちの少し変わった友情物語。

「さすが大阪の高校生」と感じさせる、役者の生き生きとした、思い切りの良い演技により会場では沢山の笑いが起こった。それぞれのキャラクターがとても個性的で面白く愛着がわいた。また、思い切り笑えたことによってシリアスな場面が際立っていた。

 里田にはじょうろ、霧島にはランドセル、中野にはギターといったそれぞれが何かに依存していることをあらわす象徴的な小道具が使用されていた。特にじょうろは、ホースと対比され、水量を自分で調節して植物に一つ一つに水をかけられるということで、人に合わせなければならない人間関係を表現しているようにみえた。また、夢の中にも登場しており、周りに同調しなければならないという、一種の脅迫観念のようなものとしてあらわれていたと思う。また、最後の場面では、残されたじょうろにだけ光が射していたことで印象に残り、各自が依存していたものを手放すことによって4人の成長が暗示されていたのではないか。

 夢の中の場面では青い照明で舞台全体が包まれており、現実の世界とは異なる幻想的な世界がわかりやすく表現されていた。また蝉の大きな声からは夏のうだるような暑さが感じられた。

 「はみられていながらも、明るく振る舞う彼女たちの姿がつらかった」「つい人に合わせてしまうというところにとても共感できた」「人に理解してもらうことの難しさを改めて感じた」など、多くの事を感じ取った意見があげられた。

 現代社会のに生きる私たちは、同調することによって人との関係を築こうとすることが多い。しかし、それは同時に個性を隠し、本来の自分を受け入れてもらえないのではないかという不安を生む。この舞台を通して、そんな世の中で、自分を受け入れてもらおうとするだけではなく、相手を受け入れることが必要であるということに気づかされた。また、お互いに認めあえる仲間がいることの大切さを改めて感じた。

担当講評委員
坂田 琴音(山口県立下関南高等学校)

池田  翔(新潟県立新潟江南高等学校
中山  桐弥(瓊浦高等学校 長崎県)