審査員講評
感   想
川 村   毅
 今回、全国大会の審査員として招かれ、今演劇を志す高校生が何を考えて何を舞台で表現しようとしているのか、目の当たりにすることができると、大いに期待した。

 審査を終えての感想は、どの舞台もそれぞれにエネルギーとオリジナリティーに満ちていて、期待に背かないものだったということだ。

 十数年前、地区、地域の大会に審査員として呼ばれていた時分には、正直いってけっこう辟易した。ストーリーの根幹とは無縁の不要なギャグ、駄洒落の連発による安易なウケ狙いが横行していたし、恐らく顧問の方が憧れと推察される既成の演出家、劇作家のコピーのようなものも多く見受けられ、そういったのを見せられるたびにげんなりした。今回そうしたものがあまりないことに感心した。全国大会という場のせいもあるだろうが、確実に高校演劇現場における演劇表現への意識は高くなっていると実感した。人気者やテレビにまどわされることなく、それぞれが独自の表現スタイルを獲得しようと志しているところに未来を感じた。

 ただし、気になったところもある。それは演者の多くの発声方法が悪く、せりふが聞こえないということだ。せりふが聞いててわかる学校とまるでわからない学校と明確に指摘することができ、後者はその点において圧倒的に不利となった。当たり前のことだが、どんなに舞台美術、戯曲、演出が冴えていても、せりふ劇を目指す限り、言葉が聞こえなければどうにもならない。

 なぜ、せりふのとおりが悪いのか。ひとつは会場の大きさもあるだろう。現に舞台美術に壁を設定した舞台は聞こえやすかった。大空間において声の反射板の役割を壁、パネルが果たしたからだろう。しかし、とおりの悪かった学校はただそれだけの理由ではなく、発語において、ただ怒鳴るばかりであったり、あるいは言葉を自分のなかに飲み込むばかりで、伝えようとする技術に欠けていたということが目立った。

 こうした発声の不備は演技トレーナーといったような、主に演技の基礎を教える役職にある人にかかればすぐに改善される。演出家はあくまで演出家であり、演出家のメソッドとは究極のところ、演出家自身のスタイルのためのメソッドであって、それと演技トレーナーの訓練はしっかり分けて理解していなければならない。

 ただ、問題は日本にはそうしたトレーナーの存在が圧倒的に少ないということと、プロ現場においてもこの役割の重要性が認知されていないということだ。故に俳優志望者は自己流か演出家の思いつきメソッドに頼らざるを得ない。理想をいえば、義務教育において音楽の授業でまず音符を習い、美術においてはデッサンを学ぶがごとく、演劇という授業を設置してそこで発声からからだの使い方という基礎を学習できれば、日本の俳優全体の質は大いに上がるだろう。つまり、生徒諸氏の発声の不備は高校演劇だけの問題ではないということだ。

 嘆いてばかりではいられない。僭越ながら、大会におけるせりふのとおりの勝利を収める方策としては、会場の下見と、日々の演技におけるせりふ術を様々なその種類の本から学び取るしかないのではと思う。 

 勝手なことを書いた。御託はこれぐらいにしておいて、以下にそれぞれの舞台の感想を書かせていただく。

 神奈川県立大船高等学校「山姥」は大人数の出演でよくこれほどの数の出演者をまとめあげたと感心した。集団劇として絵の作り方にはセンスが感じられた。が、細かい配慮の欠如を指摘せざるを得ないわけは、個々の登場人物の性格、事情が浮かび上がってこないからだ。しかしながら、これだけの大所帯の演劇部というのは頼もしい。是非、さらに大きな舞台を目指し続けて欲しい。

 東京都立東高等学校の「羊のお水 さようなら」はおもしろい戯曲を選んだと思った。せりふや演出にあふれるポップな感覚に私は魅了され、高校演劇もこうしたものが全国大会に上がってくるようになったかと感慨を覚えた。一昔前ならば、このようなポップははなから忌避されたものではなかったか。演出は非常によかったが、出演者がそれを背負う力量に乏しかった。パンフレットを見ると演者は一年生が多い。仕方がないといえば仕方がない。これからだ。

 青森県立青森中央高等学校「河童」は出色の舞台だった。今回この舞台に接したとき、審査をひきうけてよかったと実感した。戯曲が他の創作ものと比較しても圧倒的な出来映えで、作者はすでに作家として自立している。さらにその言葉を演者たちがしっかりとした発声と演技力で受け止めている。自分たちが何をやりたいのか、客席に何を見せ、何を訴えたいかが鮮明な舞台で、ありがちなとってつけたような解決の結末を見事に拒絶している、その手つきが見事だった。

 島根県立三刀屋高等学校「暮れないマーチ」の出だしの絵の作り方は見事だった。そういう意味で、つかみはオーケーなのだが、中身に入っていくとだれた。戯曲のせいもあるし、演出に統一性をもたせるという意思が欠けているせいとも思われる。ラスト近くの演出も絵としてはいい。最初と最後がよくて挟まった中身の世界が魅力に乏しい。演者はけっこう達者だった。

 北海道大麻高等学校「カノン」は、字面だけで接すればけっこうよく書かれた戯曲だと思うが、いかんせん演出に色気が無さ過ぎる。もっと登場人物を動かすか、演出で処理を施さないと、人物の現実と意識の差がわかりにくい。

 藤ノ花女子高等学校「幸せになぁれ」は、舞台装置に目を見張った。描こうとされている世界もアクチュアリティに富んでいる。しかし、とどうにも評価が難しいのはせりふがほとんど何をしゃべっているのか、聞こえないせいだ。それに尽きる。何を話しているのか皆目理解不能なので、見ている側は始終おいてけぼりにされている気分でいた。

 新島学園高等学校「りょうせいの話」は演者全員の演技力が光っていた。今回殊に水準が高いと思ったのは「河童」とこれだが、この二本はともに演者のせりふがはっきり聞こえるのだ。しかも、この舞台の演者は細かい演技もしっかりこなしており、駄洒落や瞬間ギャグに頼らずに客席を笑いで湧かせる技術に感心した。どうにもすがすがしくちょっぴりさみしい青春グラフィティが生き生きと描かれ、のびのびと演じられていた。創作脚本賞はこの戯曲になった。賞の条件に該当していれば実は文句なく「河童」が取っていたはずなのだが、はっきりいって候補作のなかでかろうじていいのは「りょうせいの話」だったという相対的な評価だ。作家は実際の舞台の出来、演者たちの演技によって奨励賞を取ったのだと自覚されたい。

 長野県岡谷南高等学校「オイディプス」は今回の出場校十二校のなかで一番の問題作だった。審査でも賛否が分かれたが、私は終始認める側にあった。ありきたりな言い方だが、やろうとしていることは古典の現代化だ。それが必ずしも成功していないと思うのは、「オイディプス」を選んだという動機をついに明確に表出し得なかったという点に尽きる。これは致命的なのだが、演出及びメンバーたちの現代演劇に肉薄していこうという気迫は十分に伝わっていて、今後こうした古典を相手にして、それに向けてのなにがしかの解釈をしようというアプローチは高校演劇においても主流になるべきと思って推した。しかし、ここもまたせりふが聞こえづらかった。

 高知県立春野高等学校「駆込み訴え」は度胸のある公演だった。ひとり芝居だ。およそ五十分ほど、多数の観客を前にひとりで演じきるのである。このこと自体を評価したい。ひとり芝居というのは、プロの現場においても常に難しい。滅多に成功しない。というか、ひとり芝居において何をもって成功と見るかの判断が難しい。ただし、この上演については、疵をあげつらえば切りがないのだが、ここでは書かない。ただ主演の彼に、これからも演劇を続けてくれと言いたい。

 山形県立置賜農業高等学校「どんがら山奇譚」は、ミュージカルとあったので大いに期待した。十二校でミュージカルはここ一校だ。生演奏がいい。これを活かして、もっと歌を聞きたかった。ミュージカルとうたっているならば最低あと三曲は歌って欲しかった。歌は下手でもいい。歌合戦でも歌のコンテストでもないのだから、誰もこの場で上手な歌声は望んではいない。のびのびとした、恐いもの知らずのミュージカルが現れないだろうか。

 大分県立日田三隈高等学校「ボタン」もまたある意味、「オイディプス」と違った種類において問題作だ。描かれている世界は放課後の男女の淡い恋心のスケッチで、一見すれば何の問題もない。おやと思うのは、そのスタイルで日常そのままの、限りなく写実に近い時間軸を礎にして演出されていることだ。故に単純に間が長い。ドラマチックな出来事は起こらず、せりふも自然だ。とここまで書いてわかる通り、ある意味、日本の現代演劇の流行りの一面を踏襲しているわけだが、自然さと写実が現実の姿を真に切り取れると考えるならばそれは大間違いで、例えば放課後のこの高校生のカップルがあまりに純情純潔、潔癖に過ぎるという印象もあり、作者と演出はこの潔癖という虚構を描きたいためにこのスタイルを選んだと言うとうがち過ぎの感想だろうか。つまり、一見すると非常にさわやかな日常の断面のように見えるが、周到な計算による倫理の発信なのではないか。その倫理の中身とは、高校生の男女交際はこのように潔癖であるべし、というような。意地悪なことを書いた。演者たちはけっこう達者で好感を持った。

 和歌山県立向陽高等学校「Leaving School」は元気のいい舞台で、すがすがしかった。だが、あえて言うとそれだけだった。出てくる教師はすべて戯画化されていて、生徒たちは拍手喝采だろうが、その手法に古くささを感じざるを得なかった。教師という存在は、今やそもそもいるだけで滑稽な対象なのではなかろうか、などと書くと教師の方々にお叱りを受けるだろうが、もはや誰も教師というだけで全員が人格者だとは思わないだろう。教師という困難な職業にある者たちはもはや戯画化する対象ではないのではないか。現に学校物だと教師が前面に出てこない劇のほうが成功しているし、アクチュアリティに富んでいる。もっともみんな楽しんでやっている空気は実によかった。演劇は楽しんでやらなければいけない。

 以上、勝手な感想を書き終えた今、内心忸怩たる思いでいっぱいだ。というのは、実作者として常日頃こうした他人の身勝手な感想に悩まされているのが私だからだ。

    (劇作家・演出家・     
京都造形芸術大学教授)

作品・人間・時代  

  オーハシ ヨースケ

舞台美術講評

 石井 強司

 この大会で観た十二本の作品を思い返す時、次の三つの言葉が浮かんだ。?作品 ?人間 ?時代。?の作品は作品力、すなわち台本と演出の力である。?の人間は演技を支えるパフォーマーの発する一種の気、知力・身体力・人間関係力などの人間力。そして?の時代は世界が直面している今日の課題にどう向き合って作品創りをしているか、作品創りに携わる人達の今日の世界に対峙する姿勢、今日と云う時代を問う力だ。こんな点から観劇し、優秀作品を選んだ。

 「山姥」(神奈川県立大船高等学校)。この作品「山姥」は日本人の母―息子の原型的テーマをみごとに描きだし、息子・やまとの責任を一人背負って死んでゆく母・山姥には強く心揺さぶられた。山神や動物たちから里人までその交流がダイナミックなアンサンブルで好演された。だが大きな山の装置に人を配する都合上適切な人間関係の距離感が失われ、熱演ではあるが相手の感情やイメージを受け取る繊細さに欠け、セリフや感情のニュアンスが乏しくなった。

 「羊のお水さようなら」(東京都立東高等学校)。ラスト、産道を抜けて赤ちゃんが生まれてくる生命感を青空の下自転車の疾走で表現したのが快く印象的。羊水が羊達に、子宮が子供部屋にと出産をメタフォリックに表現した着想は面白かった。臍の緒が首に巻きつく危機を乗り越えハッピーエンドに出産するが、予定調和すぎてドラマの深みに欠けた。一年生たちもアンサンブル良く演じ好感をもった。   

 「河童」(青森県立青森中央高等学校)。ラストシーン、河童となった少女がもらす鳴き声が深く心をえぐった。イヨネスコの作品に「犀(サイ)」という自分以外すべて周りが犀になると云う作品があるが、それを彷彿とさせる優れた作品力だった。イヨネスコの犀はナチスのメタファーだが、河童を取り巻くクラスの生徒達にある種ファシズム的な残虐性を想起させた。作者・演者共に日本の今日的いじめ状況に対峙した見事な作品だった。

 「暮れないマーチ」(島根県立三刀屋高等学校)。この作品が持つ「魂にまつわる物語」のテーマは今の世界にとってとても大切なテーマだ。彼岸と此岸が溶解するお盆の黄昏時、死んだ弟サキオが兄ユキオのもとに帰ってくる。そして独白し去ってゆく。お能の「夢幻能」的な、葛藤のないアジアの劇だ。だからこそ夢幻の黄昏時に対して実は何も起きていない「現実」を鮮明に対峙させないと夢幻の時間が生きてこない。センチメンタルに夢幻の時間を演出し過ぎて「現実」に残る微かでリアルな「夢幻の痕跡」を消してしまった。少年達の演技は素直で好感が持てた。

 「カノン」(北海道大麻高等学校)。アル中で離婚した母に再会する主人公千尋の列車の旅と彼女の子供の頃の思い出がカノンのように追い駆けっこする構成は素敵だ。母娘再会を包む真夏の雪のイメージも美しい。だが千尋の心の揺れ幅が狭く演技が全般に硬かった。他の配役ももっと感受性を開き個性的役作りをして欲しかった。

 「幸せになぁれ」(藤ノ花女子高等学校)。「妊娠にまつわる若い母親達の様々な思い」のスクラップブック、そんな印象を受けた。「堕ろす」「堕ろさない」などのドラマが新聞からのドキュメントと共にセンス良く構成されていた。ただ舞台セット同様にセリフも人間関係もすべてが均一でドラマとしての関係に密度が欠け対話が成立していない。妊婦であることや互いの存在への身体的実感をもっと大切に。

 「りょうせいの話」(新島学園高等学校)。今年でなくなる学生寮、その少し外の世界とずれた時間にいつの間にか自然と引き込まれた。そしてこの少しずれた(おおらかな)時間を失わせる外の世界の「今」を省みさせてくれた。寮の中に流れる時間にたくらみや既成のテーマがなく、そのおおらかな演技も本物に見える力があった。ただ作者には寮に眠る目には見えないもの(思い出やその亡霊)ももっと描き出して欲しかった。

 「オイディプス」(長野県岡谷南高等学校)。二十世紀前半世界は「劇」を構造的方法論的に捉えようとし、後半は方法論的にそれを解体していった。何故そんなことをしたのか。「言葉」や歴史やイドオロギーといった大きな「物語」や物事を捉える近代的「知性・意識」が信じられなくなったからなのか。その「何故」が大切。何故「オイディプス」をマスコミの目を通して解体してもう一度捉え直そうとするのか。そのなぜに答える様にあと一歩突っ込んだら君達の「オディプス解体」実験は本物になる。

 「駆込み訴え」(高知県立春野高等学校)。演技力でなく人間力を問題にしたのはこのたった一人の演劇部でたった一人で「劇」を立ち上げた「駆込み訴え」を念頭に置いてのことだ。山田憲人君の立ち姿は美しかった。木刀を部室で振り続け獲得したしなやかな身体性で激しく強いユダを演じきった。だがドラマとは二つの力の葛藤だ。カラダにドラマを仕掛けるならユダの身体性とそれに拮抗するキリストの身体性を自らの内で対峙させなければドラマにならない。キリストの「魂からの声」が発せられる身体性はどんな稽古から生まれるのか、それが次の課題だ。

 「どんがら山奇譚」(山形県立置賜農業高等高校)。文句なく素敵な音楽劇。もっと歌って欲しかった。「ダメよ! 女は魔物、町は魔物! 行かねで、お願い」ここも歌って欲しかった。山間の村を見守ってきた座敷童子が役場職員を巻き込み、おすぎ婆さんと村の記憶を守ろうとする。おすぎも源助も小気味良いテンポで好演だった。ただ座敷童子がもっと無軌道なエネルギーを発散して「劇」をひっくり返して欲しかった。座敷童子流のあっと驚く「村再建」が望まれた。

 「ボタン」(大分県立日田三隈高等学校)。祐介と春子が二人で過ごす教室での長い時間(間)は、もしこれが現実に起こったとしたら、もっと互いに何かを感じあっていたのではないか。感受性を開き、互いの存在を感じあっていないとその「間」が満たされない。二人とも好演していたが、これだけの「間」を満たし続けるのは演出的に無理があった。二人が感じ合っているものが見えてこなかった。

 「Leaving School〜振り返ることなく、胸をはって〜」(和歌山県立向陽高等学校)。何が今の教育を歪めているのか眼前で見せられた思いだ。オカモトと生徒指導石田先生の密室でのやりとり、それを覗く用務員、スリリングだった。難を言えばオカモトはもっと力を抜いて演じて欲しかった。密室で互いを感じ合う感受性の感度が求められたのに、初めからテンションが高すぎた。逆にラストで教育ビジネスを説く校長をオカモトは真剣に高テンションで張り飛ばすべきだった。そこをカリカチャにしたところにこの「劇」への取り組みの甘さがあったように思う。

(身体詩 TAICHI・KIKAKU 代表)

 『芸術は模倣である』とは、ある大芸術家の言葉。俳優もスタッフも模倣から始まる。つまり先人の作った道を歩いてそして自分の道を作る。いわゆる小劇場ムーブメント以後、俳優と同様にスタッフの表現力も広がり多様化している。その影響は高校演劇の舞台にも確実に表れている。先輩達を見習いながらも、少しずつ自分流の表現を模索する。それも今の時代だからこそ生かせる表現を。今回も意欲的な十二作品が勢揃い。

 『山 姥』

 山と村の民話的空間が舞台いっぱいに広がっている。舞台全体をおおう山パネルはリアルだが象徴的。絵もうまい。水や土、火や雪などの布を使って表現する手法は山と村との対立を際立たせて有効だ。俳優の扮装や音響、照明も含め一丸となった様式美の世界だ。村人となったやまとの家の空間に集中度が増せば、さらにドラマの奥行きが浮き上がるだろう。視覚的な情報は豊かだ。楽士達による和楽器の演奏も舞台を盛上げた。

 『羊のお水 さようなら』

 いのちについて、ストレートに取り組んだ舞台。サザエさん風な日常的ホームドラマが序々に生命誕生の空間に変化してゆく流れは、舞台だからこそ出来る遊戯性だ。例えば外界から聞こえる母の声を、電話器で受けたりするのも面白い。最後の生まれ出るシーンは、観ている我々の予想をはるかに超えて自転車に乗って出発。これも納得だ。部屋全体の大きさ、形、色彩などのトータルなイメージを今一歩強調しても良いと思う。

 『河 童』

 多数の椅子だけを使って教室という空間から、集団、組織、社会といったイメージをも印象づけることに成功している。教室の扉や窓、黒板などを写実的に表わしていたら、ドラマのねらいはもっと弱いものになっていただろう、その戯曲と演出にとって一番相応しい『空間の在り方』を見出すことが大切だ。ト書きだけにこだわるのではなく、自分達だけで作りあげる空間はこうなのだ、という共通認識を相互に持つ事も大切。

 『暮れないマーチ』

 夏の夕暮れから日没までの短い時間帯を六十分の劇空間に展開させた。映像的な演出で表わされた導入部と最終部は、音、光、人物がよく空間に溶けこんでいる。死んだ弟への鎮魂という重いテーマも、四ひきの大きな昆虫などの造形でファンタジックに明るく表現された舞台となった。公園のベンチや砂場、階段は少しおとなしい造形だが、スモークマシーンや照明の工夫で深みが出ていた。ホリゾントの変化は格別に美しい。

 『カ ノ ン』

 大小の黒パネル三枚で空間を仕切る。中心となる汽車の中は、照明のエリアによって様々な空間に移動する。主人公の過去や心の変化に対応した舞台の流れが自然で、ロードムービーを観ている雰囲気だ。汽車の椅子四脚を最小限移動させることで場を構築。椅子の形も枠だけの構造だ。車内販売のワゴンはパネル作りだが、椅子と同質の構造で統一感を出した方が良い。戯曲から読みとる情報を取捨選択してミニマムに造形した。

 『幸せになぁれ』 

 白を基調としたパステルカラーで空間をデザインした舞台は、教室、病院、家庭などへ場所と時間が縦横に変化してゆく。基本台と移動パネル、机や椅子もトータルなデザイン感覚に溢れていた。音楽のめりはり、各場面転換のリズム、的確な照明変化なども含めて、視覚的な等一感が目をひいた。いのちの誕生というリアルで大きな世界を、めいっぱい明るい舞台空間にしようという意欲が伝わってくる生命賛歌のデザインだ。

 『りょうせいの話』

 学校寮の食堂でのシチュエーションドラマ。寮生の減少でこの夏休みには廃止になりそうな食堂の雰囲気が自然体で作られている。何の特徴もない空間は、序々にドラマが増殖して食堂全体が沸騰寸前となる盛上がりを見せる。食堂はのどかでオーソドックス。沸騰する派手な装置デザインは必要としない。確かな戯曲と作為を見せないのびやかな演出も良かった。場面の途中に『秋刀魚おどり』が飛び出す。秀逸なブレイクタイム。

 『オイディプス』

シェイクスピア劇の場合と同様に、古典を現代の視点で再構築させたギリシャ劇。正面の三本の円柱が目をひく。円柱は映像を映すスクリーンにもなる。エンタシスのイメージで作られた小道具など、しっかりとデザインされた空間。どんな戯曲でも自分達流に再創造してみようという、チャレンジ精神が見てとれる。オイディプスと彼を追い求める大衆、マスコミの対比が展開のファクターとなっている。実験的な意欲作。

 『駈込み訴え』

 一人芝居にストレートに挑戦した舞台。ホリゾントも床面も黒一色でユダの空間を凝縮している。闇の中の照明は微妙に変化して効果的だ。装置はあえて飾らずに、ユダの扮装が唯一の視覚的なリアリティだ。劇場の大小に関係なく、どれだけ観客を演技空間に取り込めるかが、一人芝居のポイントだ。戯曲にもよるが、観客との対話を可能にさせるセリフ術や空間の創造。不自然に長い独白に必然性を持たせるものが必要となる。

 『どんがら山奇譚』

 廃村の危機にある山村の旧家。広い茶の間の正面に飾って量感を出している。町の人々とおすぎ婆さんの対立を際立たせているのが、妖怪バンドや座敷わらしの連中だ。紗やすだれを透かせて彼等を見せている。ミュージカル仕立ての歌や踊りのステージングは賑やか。何故かホリゾントは大黒幕で通していたが、ここはミュージカルらしいメリハリのある照明の変化も欲しいところだろう。大切な物は残すメッセージは伝わった。

 『ボタン』

 放課後の教室。そしてそこは二階の教室だということが理解される。窓から聞こえてくる野球部の声など。放課後のゆるやかな時間と空間が支配している。下手側が出入口と廊下、上手側が窓の二面飾り。通常の造形では三面飾りにする事の多い教室だが、効率よく舞台の焦点を計算したデザインだ。オーソドックスな戯曲に見合う等身大の造形。窓外の立木や遠景の街並みもバランス良く、ゆっくりと変化する夕焼けも効果的だ。

 『Leaving School』

 生徒指導室→会議室→生徒指導室の往復(行って来い)の転換をブルー照明で見せる。装置は六尺の高サで厚みもある両面作りだ。全体が七ツのピースに巧妙に切られていて、それらを回転させることで一瞬の内に転換されるのだ。『見せる転換』を明確にしたステージングは鮮やかで、少し戯画化させた演技にもマッチした納得できる造形となっている。学校の温かさ、冷たさ、ホロ苦さが程よく感じられるのだ。

(文学座舞台美術家)

多彩で豊かな

劇世界に触れて 山口 宏子

鮮やかに紡いで見せた12校

 伊藤 隆弘 

 高校演劇を見るのは初めての経験だった。大会が始まる前は十二本もの上演に緊張が持続できるか、いささか不安を感じていた。だが、幕が上がるとそんな心配は吹き飛んだ。多彩で豊かな世界に強く引き込まれた三日間だった。

 上演順に振り返ってみる。

 神奈川県立大船高校『山姥』は、広い舞台を縦横に使い、ダイナミックだった。子供を産みたいと願い、その子を守ろうとする山姥の強い思いを軸に、山の生き物と里の人間たちがからむ。大がかりな舞台装置が力作で、衣裳やメークにも工夫が感じられた。

 東京都立東高校『羊のお水 さようなら』は、「サザエさん」をもじった始まりに引きつけられた。子供部屋から出ようとしない女の子をめぐるやりとりが、次第に子宮から出ることをためらう胎児の話だと分かってくる。それを高校生が演じることで、大人の世界に踏み出す時期の少女の戸惑いが、二重写しになる構成も優れていた。自転車を全力でこぐ幕切れが清々しい。ただ、せっかく意表を突いた導入場面を用意したのに、題名が内容の「種明かし」になっていたのが惜しまれる。

 青森県立青森中央高校『河童』は圧倒的な迫力で見る者をとらえた。最優秀賞は異論のないところだろう。

 女子高生ヒメノがある日突然、何の理由もなく、河童になる。緑の顔、頭には皿、手には水かき。ユーモラスかつグロテスクな姿で普段通り登校し、普段通り振る舞おうとするヒメノの存在が、周囲の生徒たちの優しさ、嫌悪、残酷さなど、様々な感情をあぶり出す。

 人物の動きと椅子の配置で、人間関係を可視化し、観客を思い切り笑わせながら、深い淵に突き落とす。戯曲の完成度が高く、演出、演技も切れ味が鋭い。日常と地続きの不条理を描いて、「いじめ」という問題にとどまらず、疎外、差別、不寛容といった大きなテーマに手が届いていた。抑圧されていた女子生徒が、河童になったヒメノに立場が逆転したことを告げた暗く冷たい声は、耳を離れない。

 美しさで群を抜いていたのは、島根県立三刀屋高校『暮れないマーチ』だ。夏の黄昏時に、生者と死者が出会う。ファンタジックで詩的な世界が広がった。空間の使い方がよく計算され、せりふが心地よいリズムを生む。時に清潔なエロティシズムも立ち上る。

 舞台を見ていて、ふと、風景と人物が溶け合った植田正治氏の写真を思い出した。

 回想と現実を行き来しながら、別れた母を訪ねる少女の旅を描いた北海道大麻高校『カノン』は、切ない作品だった。

 列車の中で少女は、ある一家に出会う。絵に描いたように幸福そうなこの一家の描写はリアルさに欠ける。だが、それを、家族が壊れた現実を生きている少女が願った切実な夢、「そうありたかった自分と父母の姿」ととらえると、そのリアリティーのなさがかえって哀切に感じられてくる。戯曲と演出がそれを狙ったのかどうかは分からないが、どこか幼さを残した高校生の演技には、時に計算を超えてこぼれ落ちる、キラキラした何かがある。キーワード「夏の雪」のイメージがいまひとつあいまいなのが残念だ。

 藤ノ花女子高校『幸せになぁれ』は、新しい生命の誕生をめぐるあれこれを、ポップに表現した。白い舞台装置がかわいい。シリアスな挿話も盛り込みつつ、最後は赤ちゃんの幸福を願うメッセージでポジティブにまとめた元気な作品だ。劇中に父親の存在が見えてくると、作品にもっと厚みが出ただろう。実際に男性が登場しなくても、人間関係は十分描けるはずだ。

 一番愛おしい作品。新島学園高校『りょうせいの話』にはそんな形容を贈りたい。

 夏休み最後の日、寮に帰ってきた三人の男子生徒と、若い寮母、訪ねてきたOBらによる一夜の騒動がテンポ良く展開する。二年生にみんなでデートの誘い方を指南したり、お腹をこわしてトイレに駆け込んだりと、劇を構成する要素は平凡なのだが、それを凡庸だと感じさせない表現の切れの良さと勢いがある。

 こう書くと、明朗な学園スケッチのようだが、この作品が最も優れているのは、底に苦さが潜んでいることだ。

 休暇は終わり、明日からは新学期が始まる。寮は来春、閉鎖が決まっている。三年生は進路選択、大学受験という現実の壁が目の前に迫る。二年生も何か事情を抱えているらしい。恋人と別れたことが暗示される寮母は、もうじき仕事も失う。陽気に見えるOBも将来の展望が開けているとはいえないようだ。そんな屈託を抱えた人たちが、「何かが終わる予感」を胸に抱きながら繰り広げる一夜の狂騒は、ふんだんな笑いをふりまきながらも、生きることの陰影を感じさせる。人生の多面性を視野にいれた作者の冷静さが、この作品を上質な喜劇にした。素直な演技とせりふの明瞭さも特筆しておきたい。

 ギリシャ悲劇を作り直した長野県岡谷南高校『オイディプス』は、最も野心的な舞台だったといえるだろう。身の回りのテーマを描くのはもちろんいいことだが、より大きな世界や古典に果敢に挑むこうした作品が、もっとあってもいい。映像を使った演出などにも前向きな姿勢を感じた。

 太宰治の小説をそのまま一人芝居にした高知県立春野高校『駈込み訴え』は勇気ある舞台だった。一人語りで一時間も観客を引きつけるのはプロの俳優でも難しい。それを高い緊張感を保ってやり遂げた気迫に胸を打たれた。ユダの心象を影で描くなどの演出にも工夫があった。

 山形県立置賜農業高校『どんがら山奇譚』は、山村の過疎という社会性のあるテーマを、生演奏つきのミュージカルにした意欲作だ。中心人物のおばあさんの造形が魅力的で、彼女の想念の世界と現実が同調してゆく不思議な場面がおもしろい。だが、山村と町の対比といった主題にかかわる部分の作劇が生硬だった。

 大分県立日田三隈高校『ボタン』はちょっと懐かしい雰囲気もある、学校生活の一幕を切り取った作品。男女生徒の揺れる思いを水彩画のように表現した。長い沈黙、ゆっくり流れる時間。かけがえのない瞬間を紡ぎ出そうとする努力が伝わってきた。

 和歌山県立向陽高校『Leaving School 〜振り返ることなく、胸をはって〜』は、退学処分になりそうな生徒との対話を通して不器用な新米教師が成長してゆく過程をおもしろく見せた。この二人が生き生きしているのに比べ、他の教職員が戯画化されすぎていたのには違和感が残った。掃除をしながら二人を見ている職員の立場をくっきりさせる演出にすれば、舞台はさらによくなると思う。

(演劇記者)

 伝統的織物の町「桐生」での第五十四回全国大会に審査という重責ながらお招きいただき、幸せな三日間を過ごさせていただきました。高校演劇と出会って四十年余りの私ですが、とにかく全国の舞台に接するワクワク感は今もって新鮮な感動として蘇って来ます。この度も久々全出場校十二本の熱血舞台を拝見できることは大きな喜びです。桐生の地にふさわしい色鮮やかなシルクで飾られた緞帳が上がるたびに、展開される舞台は本当に多彩でした。

 演劇とは何か、というような原則論はともかく、ピュアでストレートな劇づくりを大切にしてほしいというのが、私の持論です。かつて私たちが四つに組んだ劇づくりと現代のそれとはずいぶんスタンスやスタイルが変わってきたことは事実です。例えば、今回の劇作分科会でも、笑いのある劇をどうやって作ればいいのかという真面目な質問にやや当惑しましたが、笑い中心の軽いタッチの舞台を重視する傾向は確かに主流化しているように思います。笑いも一つのエレメントに違いありませんが、 何よりも自分たちの狙いとするテーマを、舞台からいかに観客に発信し、それぞれのハートを掴むことができるかということを、第一義としたいものです。私はいつもその観点を大切に、それぞれの舞台を拝見することにしています。

 トップバッターのプレッシャーを見事にはねのけた大船高校の『山姥』は見事でした。あれだけの大人数の登場人物をよく計算された動きとアンサンブルで迫力ある舞台にしていたと思います。少しせりふがシャウト気味で聞き取れないのが気になったのと、山姥の心がもっと明確に出るといいかなとも思いました。

 都立東高校の『羊のお水 さようなら』は、大胆かつ強烈ながら新鮮な舞台でした。生まれたくない、大人になりたくないという胎児の、高校生が、羊たち(羊水)にサポートされながら脱出する奇抜なお話でした。「サザエさん」のテーマに乗った軽快な幕開きと、明るい表情で自転車をこぐエピローグに、重いテーマから救われるものがありました。少しせりふの通りが悪かったのは残念でした。

 青森中央高校の『河童』は、前顧問の作品だそうですが、視点の定まったどっしりした舞台でした。多数の登場人物が肩肘張らず、身の丈に合った高校生らしい演技に好感が持てました。いじめの問題がかくも明確に語られ、こんな河童はどこにもいるんだよ、というメッセージの不気味さがはっきり伝えられていました。ヒメノの叫びが今も耳に残ります。

 三刀屋高校の『暮れないマーチ』は、メルヘンチックな雰囲気で、私たちが忘れかけていた世界への思いをかき立てる作品でした。高校生が演じる子供の世界は、ともすれば類型的になりがちですが、とてもナチュラルに表現されていました。無邪気な虫遊びの向こうに、死の世界を予感させる巧みな展開は見事でした。叙情的雰囲気な舞台だけに、もう一つ明確にテーマの主張があってもよかったかなとも思いました。

 大麻高校の『カノン』は、悩める一女生徒の心象風景ともいうべき舞台でした。列車内で出会った家族との触れ合いから自分の両親との確執、母への思いがストレートに語られます。ただ、番号化された登場人物が、親子や生徒を兼ねて演じるアイデアが、逆に動けないフラットな表現になったのは、惜しい気がしました。ポケモンの名前のおまじないは意表を突く発想でした。

 藤ノ花女子高校の『幸せになぁれ』は、前述の都立東高校と表裏一体の作品だったように思いました。妊婦や出産の問題を、高校生の現代的角度から提起していく舞台でした。少しせりふがフラットで、登場人物相互のかみ合わせが弱い感じがしましたが、せりふが多かったために急ぎすぎたのかもしれません。

 新島学園高校の『りょうせいの話』は、従来の高校演劇のスタイルを見事に継承する安定した舞台でした。テンポのよいせりふ運びとナチュラルな表現の中から自然と笑いを誘う展開に驚きました。せっかくのチケットがトイレに流されてハッピイエンドにならない結末もなかなかリアリティがあってよかったと思います。寮生たちときちんと向き合った脚本の巧みさを感じました。

 岡谷南高校の『オイディプス』は、ご存じのギリシャ悲劇を現代に位置づけて描いた意欲的な舞台でした。なかなか工夫した展開でしたが、欲を言えば、思い切って現代世相に密着して、今や問題化している肉親殺人との接点からオイディプス像を描けば、さらにインパクトが出たように思ったりしました。マスコミへの批判が、やや通俗的で今一つ工夫があってもよいように思いました。

 春野高校の『駈込み訴え』は、高校演劇には珍しい一人芝居で、当初部員が一人しかいなかったという事実はともかく、意欲的取り組みだったと思います。太宰治のイエス・キリスト観をユダの目でいかに描くかというおもしろさがあります。何もない舞台でなかなかの熱演でしたが、舞台上の表現が観客の心にどう迫ったかということに成否があるように思います。 置賜農業高校の『どんがら山奇譚』は、高校演劇の原点を思い起こさせる舞台づくりを見せてくれました。ミュージカルと銘打つ以上はもっとふんだんに歌や踊りを入れてほしかった気もしますが、シルエットの踊りや楽隊に工夫の跡を感じました。座敷わらしたちは、思い切って舞台全体縦横無尽に乱舞してもよかったように思いました。

 日田三隈高校の『ボタン』も、従来の高校演劇らしい折り目正しい舞台でした。もどかしいまでの二人の高校生の心の交流を軸に展開される、ノスタルジックな雰囲気の舞台に昔の高校生の私は、何か心が癒される思いがしました。ただ現代の観客へはもう少しアップテンポの展開でないと、アピール度も弱いかなとも思いました。

 向陽高校の『Leaving School 〜振り返ることなく、胸をはって〜』は、問題生徒と問題教師群の葛藤をハイテンポで楽しく展開し、会場を沸かせていました。ただ全体がカリカチュア的表現に終始するだけにリアリティが乏しく、職員室が生徒会室の雰囲気しかなかったのが惜しまれます。良心的でか弱い女教師の人間像がもっと描出されてもよいように思いました。

 以上、私なりの寸評を述べさせていただきました。的外れの点もありましょうが、初見した立場からの率直な感想とご容赦下さい。

 ともかくも、予想どおりの多士済々、さすが全国各代表校にふさわしい舞台を、織物の町で見事に、鮮やかに紡いで見せていただいたことに感謝します。おつかれさま。

(全国・中国高等学校
演劇協議会顧問)

楽しかった第54回全国大会

北市 邦男 

高校演劇よ、永遠なれ!

  影山 吉則 

 昨年の島根大会は残念ながら参加出来ず、2年ぶり21回目の全国大会に、初めて顧問審査員として参加したが、大変楽しかった。顧問審査員を1名増やして何年になるだろうか? 教育活動としての演劇表現という視点で、顧問審査員の役割も重視されてきたが、今回専門審査員の方々にも、顧問を取り巻く状況の厳しさを理解していただけたようである。

 以下上演順に感想を書く。

 神奈川県立大船高校の『山姥』は大変丁寧な舞台美術に感心した。またたくさんの登場人物をうまく登、退場させ、ダイナミックな舞台で大変楽しめた。ただ残念なのは、他の学校についてもいえることだが、主に女子の発声が悪く、せりふが聞き取りにくかったことである。花道で生演奏をしている部員が、観客の目線が舞台に集中するように、大変な神経を使っているのがわかっただけに、せりふももっと丁寧に扱って欲しかった。

 東京都立東高校の『羊のお水 さようなら』は「生まれる=自立」ということの不安を描いた、女性ならではの面白い発想の舞台であった。ただ人生にペシミステックなのかと思ってみていたが、最後の自転車のシーンは、ホリゾントの色合いもあって、生きるということについて前向きな感じが出ていてほっとした。

 青森県立青森中央高校の『河童』は優れた舞台であった。発声が自然で、よく聞き取れた。演ずる部員たちも役の理解がよくできており、戯曲の内容をしっかりとつかんでいた。いじめ、差別、疎外の問題をシンボリックに描き、人間集団の持つ怖さを鋭く提示した。集団劇では個性が埋没しがちだが、この舞台は、役者の声の違いをうまく生かし、個性的であるとともにリアルな存在感をうまく表現していた。差別しないようにクラスメートを説得していた「カイ」が、抱きつこうとした河童の「ヒメノ」を反射的に避けてしまう展開は無残でありながら、鋭い人間洞察に基づく優れたシーンであった。こうしたドラマをはさんで冒頭と最後に繰り返される「さびしい」「河童が河童でなくなる日が来るだろうか」というフレーズが人間に対する告発のようにも、祈りのようにも聞こえて胸を打った。

 島根県立三刀屋高校の『暮れないマーチ』も優れた舞台であった。死んだ弟のことを忘れられない兄の思いを、たそがれ時の美しい舞台の中に凝縮させた切ない舞台であった。またシーンの展開は言葉遊びや巨大なカブトムシたちを登場させたりして、楽しい舞台でもあった。残念だったのは音楽の使いかたで、歌詞がクライマックスの演技よりも力を持っていたことである

 北海道大麻高校の『カノン』は、大きな舞台を照明と黒いパネルで狭め、ドラマとマッチした効果的な演技空間をつくっていた。家庭が崩壊したことで深く傷つき、人生を肯定しきれない主人公の再生の物語とも受け止められたが、ひょっとしたら全体が「千尋」の想念の世界での自己展開なのかもしれない。最後の長せりふがもっと観客のイメージを喚起して欲しかった。

 藤ノ花女子高校の『幸せになぁれ』は全体としてきれいな舞台であった。内容もせりふの量も多く、センスのよい舞台装置や照明も思いがあふれているが、発声の弱さもあり、その思いがドラマとして観客に届きにくくなってしまったのが惜しまれる。

 新島学園高校の『りょうせいの話』は今大会最良のウエルメイド劇であった。役者がそれぞれ、伸びやかにリアルに役を生きており、充分に観客を楽しませた。全員が3年生ということが大きいと思われるが、発声が自然でせりふがよく通り、声にも個性があり、全体にアンサンブルが非常によかった。感心したのはギャグで無理に笑わせようとせず、誠実に役を生きることで生まれる自然な笑いが、芝居を膨らませ躍動的なものにしていたことである。

 長野県岡谷南高校の『オイディプス』は意欲的な脚本である。パパラッチを想起させるラストシーンを含め、現代のマスコミの問題点を浮かび上がらせようとする脚本に期待するところ大であった。舞台はエネルギッシュに展開したが、叫ぶシーンが多く、ポイントとなるせりふも聞き取りにくかった。そのため「オイディプス」を素材に、現代を批評的に切り取ろうとする、積極的な思いが伝わりにくくなってしまった。

 高知県立春野高校の『駈込み訴え』は一人芝居で今大会中、きわ立った異色作であった。装置も照明も演技も、過剰なものをそぎ落とした舞台は新鮮であった。能を思わせる様式性の中に、激しく揺れ動く「ユダ」の心情を表現しようとする、こころざしの高さに感心した。前半は舞台空間を緊張感とともに支配したが、後半やや息切れがしたのが惜しい。イエスを思わせる一筋の弱いサス明かりが印象的であった。

 山形県立置賜農業高校の『どんがら山奇譚』は方言の魅力を生かし、東北の山村の雰囲気を漂わせ、座敷わらしの存在が素直に受け入れられる、心温まる音楽劇であった。「おすぎ婆さん」の存在感が、いやみのない素直な役者達の演技とあいまって、素朴な物語の中へいざなってくれた。丁寧に作りこまれた舞台と生演奏も素晴らしく、飽きさせることなく、最後まで観客を引っ張っていった。

 大分県立日田三隈高校の『ボタン』は不思議な舞台であった。ホリゾントのゆっくりとした転換に見られるように、全体に丁寧でせりふが明瞭であるが、間が埋まっていない為、舞台に集中しきれない。最後の歌詞入りの歌が、説明的でそれまでの芝居を壊してしまったように感じられた。

 和歌山県立向陽高校の『Leaving School 〜振り返ることなく、胸をはって〜』は全国大会2回目の登場である。同じ脚本を上演するときは、どうしても切り口の違いを求められるが、今回の演出は教師像を徹底的にカリカチュアすることで、かなり違う風合いをだしていた。ただそうした教師群像と、石田と岡本のドラマの質がかみあわず、全体としてあまりリアリティを感ずることができなかったのが惜しまれる。

(中部日本高校演劇連盟顧問)

 級友たちとのコミュニケーションに苦労する学校生活や、親子関係さえ不安定になっている家庭環境など、高校生の置かれている状況は厳しい。このような現実を直視するのは残酷なことだが、その現実と真摯に向き合い、その中でどのような生き方ができるかを考えた作品が目立った大会であったと、私は思う。

今大会のトップバッターは、神奈川県立大船高等学校による『山姥』。大蜘蛛の化身である山姥が人間の子どもを育てることで起こる悲劇を圧倒的な迫力で描いた。幕が上がると、山姥の住む山が観客を圧倒する。役者はよく訓練されており、舞台全体を所狭しと動き回る。幕前に配置された音楽隊の和楽器の調べも美しい。だが、台詞のほとんどが叫び声になっており、ドラマを支える言葉が伝わってこなかったのが悔やまれる。

 東京都立東高等学校による『羊のお水 さようなら』は、サザエさんのキャラクターを用いて、出産を待つ胎児の葛藤が楽しく描かれている。舞台の中心にちゃぶ台があり、幕切れでは自転車で疾走する舞台となる。母親との対話が電話というアイディアもよい。本はよく書けているのだが、残念なことに、実際の舞台からは生まれることに不安を覚える胎児の気持ちが伝わってこない。生まれ出る不安と大人社会への旅立ちへの不安のダブルミーニングとも思えたのだが。

 青森県立青森中央高等学校による『河童』は衝撃的な舞台であった。ある朝、目が覚めると、河童に変身していた女子高生が登校してきたことで起こる波紋。親切に対応しようという声に表面的には誰も逆らえない。しかし、河童に変身した子が、実はいじめをしていたことが分かる。いじめていた子が河童になることにより起こる立場の逆転。それにより吹き出す様々な本音。親切に振る舞っていても、河童に変身した少女に近寄られると、思わず身を引いてしまう現実が身につまされる。集団から阻害される人間を河童とすることにより、本作品を、いじめ問題に矮小化させることなく、異形なものを忌み嫌い、阻害し差別する社会をも浮かび上がらせることに成功した優れた脚本である。また、舞台の生徒をいくつかのユニットとして描写することにより、仲間との関係性の構築に苦労しながらも、やはりどこかに所属していないと不安でたまらない現代の若者を見事に描き出していた演出。どれも見事である。我が身を振り返り辛くなる展開ではあるが、ラストで河童と同じ格好をした男子生徒が手を挙げたとき、私は不覚にも涙がこぼれそうになった。

 島根県立三刀屋高等学校による『暮れないマーチ』の幕開きほど美しいものはなかった。その後の展開を予感させる詩情あふれるものでもあった。日が暮れない街のマーチ(行進)がタイトルか。二人の兄弟が語る生と死の物語であった。お盆にしか会えない死んだ弟。お盆の日が暮れなければ別れはやってこない。けれど、日は必ず暮れる。昆虫採集の遊びも含めて、命を見つめる優しさに満ちた作品であった。死と向き合ってこそ、人は生きることを実感し、苦悩するのだと、見終わった後に感じた。

 初日のラストは、北海道大麻高等学校による『カノン』。色鮮やかなエネルギッシュな舞台が多かった中で、黒一色の舞台はシンプルだが、登場人物を見事に浮かび上がらせ、舞台への集中力を高めるのに成功していた。少女が列車に乗ってアル中の母親を訪ねる物語である。列車に乗り合わせた少女とその両親に自分の家族を重ね、少女の苦悩を描いた。異なる空間へのジャンプを、列車がトンネルを通過する際の暗転とした演出は見事である。台詞も詩的で、余韻のある上質な舞台であった。

 二日目のトップは、藤ノ花女子高等学校による『幸せになあれ』。妊娠と出産という問題を、女子高生が取り組んだ姿勢に拍手を贈りたい。生きるということを真摯に見つめたタイトルにも好感が持てた。産婦人科の待合室での妊婦、教室での女子高生、回想と、いくつかのシーンが繰り返されるのだが、それらがうまくつながってこない。台詞が生で、会話として成立していないためにドラマが立ち上がってこなかったのが残念である。

 開催県代表として出場したのが新島学園高等学校。作品は、夏休み最終日の寮の食堂を舞台にした『りょうせいの話』。男子高校生三人と寮母、寮の卒業生が、一人の男子の恋を成就させようとして起こるドタバタ喜劇である。役者の演技の間合いが良く、観客が思わず引き込まれるほどであった。創作脚本賞も併せて受賞したが、優れた脚本をスタッフと役者の見事なアンサンブルが、素晴らしい喜劇として本作品を昇華させた、秀逸な舞台であった。

 長野県岡谷南高等学校による『オイディプス』は、古典を現代感覚で舞台化したということにおいては意欲作であった。カジュアルな衣装の役者、マスコミの登場など、随所にアイディアが豊富だが、演出意図として客席に届いたかは疑問が残る。熱演ではあったが、台詞が絶叫調で聞き取りにくかったのが残念であった。

 続いて上演されたのが、高知県立春野高等学校による『駈込み訴え』であった。ある意味、異色作品が並んだ格好だ。こちらは、男子による一人舞台である。太宰治の短編小説を一人語りとして舞台化したもので、イエスの弟子のユダが、イエスを裏切るという緊迫した時間を全身全霊で表現した。

 山形県立置賜農業高等学校『どんがら山奇譚』は、座敷童を楽隊にし、山村の現実を、老婆の心をとおして描いたミュージカル風の舞台であった。役所の青年の成長を応援したくなるような心温まる作品に仕上がっていた。楽隊がもっと自由に物語に入り込めば、なおいっそう楽しめる作品になったであろう。

 三日目のトップは、大分県立日田三隈高等学校『ボタン』。家庭の事情から転校することになった少女に、少年が学生服の第二ボタンを渡すという物語である。放課後の教室に静かに流れる時間が印象的な舞台であった。ただ、少年と少女を結ぶ具体的なものが、客席にまでは迫ってこなかったのが残念であった。

 今大会のトリは、和歌山県立向陽高等学校 『Leaving

School 〜振り返ることなく、胸をはって〜』。未熟な若手教師が問題を起こした生徒を取り調べる中で、真実を知り、生徒を守ろうと立ち上がる物語である。生徒と教師の二人のドラマが、後半の生徒指導部の会議あたりからリアリティーを欠いていく。演技もコメディなのに間の悪さが目立ってしまった。見事な舞台装置と、その転換の手際よさに、部の苦労の跡が見られた。

(北海道登別明日中等教育学校)


出会い、感動、そして未来を照らす夏
長野 諒子
 生徒講評委員会は三日間十二校の上演を観て、一つずつディスカッションをし、講評文を作成しました。講評委員は南は沖縄、北は北海道の全国の高校生15名が集結しました。

 私自身は昨年の島根大会で初めて講評委員会というものの存在を知り、参加しました。上演校のすばらしい劇、内容の濃いディスカッション、全国大会の規模の大きさ……と、その時は何とも言えない感動と、衝撃を感じました。

 そして、生徒交流会の前日である六日、二名を除いた生徒講評委員が初めてこの群馬の地で顔を合わせました。最初は固い顔をしている生徒が多かったように感じ、私自身も「生徒講評委員長としてしっかりとしなくては」と緊張と不安と期待が入り混じっていました。しかしその緊張と不安はその日の夜、交流会の練習でのメンバーの笑顔で吹っ飛んだのでした。交流会当日、新たに二名を迎え、練習をもう一度し、交流会が始まりました。十二校の上演校や来年の会場の三重県の個性豊かな紹介がされ、とてもリラックスができました。生徒講評委員も精一杯に楽しく発表しました。会場にいるみなさんもステージに上がってもらい、一緒に盛り上がることができました。

 翌日からは生徒講評委員会の本業、観劇とディスカッション、講評文作成の三日間が始まりました。観劇を終えた後ディスカッションをしました。私は講評委員長として去年の経験を生かせるよう、自分の意見も言いつつ、話が途切れたときに繋ぎができるよう心がけました。最初は発言が少なかったり、声が小さい人もいましたが皆、徐々に慣れてゆき、発言が増えていきました。また十五人の生徒が一つの劇について話そうとすると多くの意見が出て、共感を覚えたり、新鮮さを感じたりもしました。

 宿に戻ってからの講評文作成ではみんな苦労しました。劇が素晴らしかっただけにそれを文章化し、それをわかりやすくするというのに苦労しました。私は全体講評を主に書いたのですが、一つの劇ごとに一言ずつ述べ、また今回の十二校全体について述べるという点で副委員長や先生方、アシスタントの方に助けられました。他の講評文を作成したメンバーも仲間に助けられながら講評文を完成させました。

 大会が終わり、最後にメンバーや先生方と別れを告げました。「委員長お疲れ様」「委員長としてよく頑張ったね」などたくさんの暖かい言葉をもらい、講評委員長をやってよかったと心から思いました。また、私も含め多くの人が、この総合文化祭で新たな決意ができたようにも思えました。

 去年に引き続きこの生徒講評委員に参加し、自分の意見を恐れずはっきりと言うこと、一人ではなく仲間と活動するという楽しさ喜びを再確認しました。そしてこの群馬県総合文化祭に参加できたこと、新たな仲間たちに出会えたこと、すばらしい劇を十二本も観たこと、どれもすばらしく忘れられないものになりました。総文祭は私たちを成長させました。

(生徒講評委員長・高崎市立経済大学付属高等学校)

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