| ■ 審査員講評 | |||
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舞台の成果とそこから学ぶ課題
岡安 伸治 |
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高校演劇という物語 西堂 行人 |
舞台美術講評
宮崎・高校演劇の夏 土屋 茂昭 |
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まるで一本の長い芝居を見ているようだった。八月三日九時半に始まり、途中、休憩を幾度か挟み、最終公演が終わったのが五日の正午。実に五十時間にも及ぶ大河ドラマだ。出し物は「高校演劇全国大会」、演じ手は全国から集まった十一校の精鋭と、はるか北海道からビデオ参加した一校。登場人物はゆうに百人を超える。現在の高校生の生き方、考え方、直面している悩みや困難さ、そのすべてがおしげもなく披露される。各地域から生まれてくる舞台は、まさに現在の高校生、のみならず日本の現実を映し出す。 演じるのは十代の若者たちだが、その背後を大人たちがしっかり支えている。台本も顧問の先生が書く作品と生徒が書くものでは、成熟度が違う。既成の名作に比べれば、生徒が徒手空拳で挑む舞台は、最初からリスク覚悟だ。それを同じ土俵で評価するのだから、審査する側も相当の「芸」が必要とされる。 第一日目の一発目は三刀屋高の『オニんぎょ』。トップということもあってか緊張感も最高潮、役者の心臓の鼓動が聞こえてきそうだ。けれども、わたしには一番心に引っかかる舞台だった。童謡や遊びなど、子供の頃誰もが親しんだ素材に端を発し、言葉遊びが次々と連想を生み、最終的には現代のアクチュアルな問題に迫っていく。「鬼」とは排除されている者の代名詞であり、学校の「いじめ」にも通じる。「Can’t get me」(私を捕まえることはできない)という謎の言葉の意味が次第に解かれ、どこかに消えてしまった「青い目をした人形」からは拉致問題すら連想させた。間口が広く、しかも奥行きの深い野心的な舞台だった。 次に心に残った舞台は、最後から二番目の前橋南高の『黒塚Sept.』。冒頭で俳優がケータイを通して二つのセリフを言った瞬間、劇中に一気に引き込まれた。なんと見事にエロキューション(声音)を使い分ける女優だろう。そこから物語は次々と不可思議な展開を見せ、観客の想像力を引っ張っていった。インフルエンザで学校閉鎖され、数ヵ月後に迫った演劇大会の準備が間に合わない。このなんでもない高校生の部活の背後に、能の『黒塚』よろしく、死の影が忍び寄ってくるのだ。ヤマンバのような女子高生を演じた大渕礼奈さんに大きな可能性を感じた。 「既成」といっても演出の方法までがきっちり指定されている弘前中央高の『あゆみ』は、かえってハードルが高かった。物語自体はありがちなものだが、それを具体化する方法に見るべきものがある。幕開き、客電がなかなか落ちず、女子高生が制服のままレッスンに励んでいる。これなら演技の巧拙は関係ない。いかに演出の手に乗って忠実に遂行していくか、一糸乱れぬ統率や規律が必要なのだ。それを嬉々として演じる女子高生たち。だが、規律に従うことは本当に楽しく充実感があるのか。舞台の完成度が高かっただけに、そんな疑問も抱かされた。 高校演劇の「王道」を行くのが川之江高の『さよなら小宮くん』だ。等身大の高校生が目いっぱい舞台で友情や恋愛を謳歌し、傷つき、慰めあう。まさに高校生活を地で行く芝居だ。役者も鍛えられていてアンサンブルも絶妙だ。おそらく多くの高校生たちの感動と共感を呼び覚ますものだろう。だが、ここで演じられていることは、そこで終わってしまう。演劇は「その先」を見せてほしい。 四日市高の『Fathe's day』は稚拙さを抱えながらも光るものがあった。生徒創作の利点を活かし、作者が言いたいことを存分に語っている。その言葉は不甲斐ない大人をたじろがせるに十分だ。明快なメッセージが放たれるたびに、それを大人の見識で収めようとする父。「いいんじゃないの、ロリコン」。今回のすべての舞台で、いちばん笑わせてくれたセリフだ。 神戸高の『SISTERS』は、『三人姉妹』を下敷きにしたもので、随所にチェーホフが引用される。けれども、ここでもいちばん心に響いたセリフは、「夏のキリギリスかてさ、命がけでバイオリン弾いてるんかも知れんやん」という機知に富んだオリジナルの言葉だ。作者は大作家をリスペクトし過ぎて、かえって自分の持ち味を消してしまった感がある。 佐土原高の『銀の雨』は大人のロマンを見ているような舞台だった。中年になってくたびれた男が、昔高校の卒業式で破った約束を思い出し、母校に戻る。すると、そこには三十年前のマドンナの女子高生が雨に濡れたまま待っていた! でもこれは、かなり身勝手な男のロマンである。 妻高の『トシドンの放課後』は高校演劇の名作で、不登校の生徒と非行の生徒が次第に心を通じ合わせていくストーリーは学校問題に真っ直ぐ切り込んだものだ。ここでも「鬼」(=トシドン)が出てくるが、これはある島に伝わる民族的なもので、そこで学校の閉塞的な想像力が一挙に開いていった。ここにこそ演劇の魅力がある。 関東代表の三校の舞台には共通項がある。伝えるべきテーマがない、だからこの時間・空間をいかに即興的に埋めていくかという姿勢だ。中大附の舞台はその典型だが、こうした舞台を演じるには、即興で観客とやりあう相当の技量が必要だ。加えて、何故演劇のルールを壊してでもこの方法をとるのかという強靭な演劇論がなくてはならない。いいアイデアもあったが、それだけで舞台を持たせることはできない。 モー娘の曲に乗って舞台を所狭しと走り回るのが村田女子高だ。一見パワー溢れる行動にも映るが、エネルギーの浪費にも映る。演劇部を盛り上げようとするけなげな後輩と不細工な先輩の奮闘。追いつめられた高校生の悲しさは伝わってきたが……。 逆にスタイリッシュすぎてエネルギーが伝わってこなかったのが甲府昭和だ。つねに他人と距離を測り、自分のポジションばかりを気にする生徒たち。しかしポジションどり自体が目的で、そこで何をするかが問われない。機能と役割しかない現代社会の反映だろうか。 全体を通じて、演劇のルールを壊し、演劇そのものを作り変えていこうという志向性が見られた。だがこれは構築された劇があってこその解体である。壊しても壊してもなかなか壊れないのが演劇の強靭さである。その歴史性に出会い、学んでほしい。 最後に、心ならずもビデオ参加を余儀なくされた北海道の鹿追高校の無念さは察してあまりある。聞くところによると、創部四年目の同好会での全道一というのだから、大したものだ。是非この舞台を練り上げて捲土重来を期していただきたい。 (演劇評論家・近畿大学教授) |
●「オニんぎょ」 下手にすべり台、その横にシーソー。上手にブランコ。全て、銀色の脚立の組み合わせで作られている。造形的にも面白い。高さ三尺弱の二重が間口分組んでありセンターに階段。その二重にトラス状の柱が数本立っている。脚立との連想で金属的なイメージが舞台を支配している。二重の向こうとこちらを違う世界に仕立てることにも成功している。効果的に使われているビジュアルも多々あるが、最終シーンの巨大な少女の人形が出現する仕掛けなど全体にアイデアが先行して、子供の残酷さと差別性の深層など肝心の芝居の内容が観客に届くまで、言葉と動きが整理されていない感じがする。 ●「トシドシの放課後」 白い壁。上部が舞台前に屈折している。床から二メートル程の所に横長の窓が三箇所。やや下手よりに、二人が座る椅子と机。そこに平野と問題児が向かい合って座る。この、向かい合って座る設定が、舞台に動きと表現の幅を狭くしている印象がある。出演者の台詞がほとんど同じ距離、同じ向きで語られる。テンポの均質さも含めて演出的な工夫が欲しい。窓明かりで時間経過を表現しようとしていると思うが、窓だけでなく舞台全体の表現として照明を考えてほしい。折角のトシドシの面を使った場面は、横向きの構図でなく縦に舞台を使用した前後の構図でお面を客席に向けた方が効果的。 ● 「平成二十一年度北海道然別高等学校演劇部十勝支部演劇発表大会参加作品」 生で見たかった。空間の使い方、小道具のあり方、間の取り方などシアトリカルな表現として一つの取り組み方だと思う。が、やや遊び心で終わっている面も感じられる。それにしても、生で見たい舞台でした。 ● 「放課後の旅その他の旅」 暗闇の中に浮かぶ携帯液晶画面のライト多数。舞台は、間口約八間の袖と大黒バック。人格を消すような台詞運びと交流のない演技。平板に過ぎていく芝居。これは、演出なのか、それとも発声と身体訓練がもっと必要なのか? 自分探しの舞台に突然現れる図書館の装置。演出的な装置として効果的で面白い。ただ、演技エリアとしての基本空間の間口奥行きを考えると、舞台前を間口六間。最奥を八間の逆パースの空間として使った方が、図書館や舞台前に出てきたとき人物のズームアップ感と奥深い暗闇の空間の効果がより期待できる。 ● 「さよなら小宮くん」 中割りを黒バックとして使用。テーブル二つ。飾り付けをしたさよなら小宮くんのパネル、何故か衣桁(着物を掛ける物)に掛けてある。小道具の位置と演技エリアを考えると全体に前に飾り過ぎて窮屈に見える。元気のある舞台ではあるが、身体訓練が不足しているのか、演技がパターン化しているようだ。観客は、シチュエーションとアクションに単純に反応しているが、その軽さを「受けている」と勘違いしないで欲しい気がする。吉岡のリアルな台詞に救われる。 ●「SISTERS」 中割り黒バックで袖間口六間。床面に黒パンチカーペットで四角く室内エリアを作ってある。これは、黒パンチエリアをもう少し小さくして、袖幕の内側にエリアとして独立させた方がよい。また、台詞の聞き取りづらさは、バックを幕でなくパネルにすれば客席への声の通りに数段の効果がある。また、室内にソファーやちゃぶ台など生活家具が置かれることで室内という場所はあるが、演出された室内という空間が感じられない。その場にあったもので仕切った感じがする。小道具を集めるにも色彩感覚を持ちたい。ライトチェンジや転換の明かりは演出的目的に合わせてデリケートに作って欲しい。 ●「Father's day」 三方をパネルで囲った室内。雑然と散らかったオタク系男子学生の部屋の様子。父の突然の訪問に、大急ぎで片付ける時間に対応した物の量や選択と散らかり具合が面白い。男三人で進行する舞台も、珍しく無意味なコント的なギャグでウケを狙うのでなく台詞と芝居、間で笑いを取るなど稽古の時間が感じられた。 ● 「あゆみ」 幕が上がると空舞台。地明かりの中、テーブルを二本持ち込んで来る生徒達。袖幕と大バックの黒幕が降り、台詞きっかけでライトチェンジ。舞台前センターに間口三間奥行き九尺ほどのエリアがくっきりとライトにより浮かび上がる。そのライトの中だけがあゆみの演技エリアともなり、そのエリア以外では、素の女子生徒として居るというシチュエーション。大変効果的な作劇で観客を引き込んでいる。台詞の通りとパターン化した演技に難があるが良く訓練されていることが分かる。きちんと計算された空間やタイミングに洗練された感覚を感じる。 ● 「とぅらとぅらとぅらとぅらとぅらとぅららー♪」 中割黒バックに袖間口八間から六間ほど。舞台上には、色とりどりの小道具が点在している。芝居半ばで中割オープン。ただただ元気。小道具の周りを駆け回る。芝居と言うよりショートコント集のようにも見える。中割黒バックに無造作にあたるライト。室内、室外など出捌けの袖の整合性など、全体に演技をする場の作り方にどう取り組んだのか不思議。ただ、登場する人物の衣裳や小道具の色彩感覚など、見せ方の楽しさを徹底しているようでもある。 ● 「銀の雨」 男の都合の良い思い出探しみたいで少々こそばゆい。袖間口八間で奥行きホリゾントまで使った空舞台。演技エリアとしては、少し広すぎる。白い箱を椅子やベンチの小道具として使用。場面によっては、教室で黒板が出てきたり、おでん屋ののれんが出てきたり、売店Kieskのお店書き割りパネルが出てきたりする。これらの具体的な物は、モノトーンにするとか使わないとかした方が良かった。演出を含めた表現としての貫通性が浮遊している感じ。過去にもどる電車の座り位置は、横向きでなく正面を向いて台詞が喋られるように構図を整理してあげた方が親切。ラストの赤い傘の吊り物は、イメージとしては綺麗だが唐突感がある。 ● 「黒塚Sept.」 袖間口六間でV字に二面のパネルで囲われた部屋に開閉する窓一つ。糸車や滑車等の意味不明・少々不気味な小道具と生活家具が点在している。引きこもりと思われる演劇部の少女の、鬼女を思わせる表情が迫真。心の荒廃か妄想のイメージがしだいに舞台を支配していく感じが良い。窓明かりも変化するが時間経過と心象風景としての色遣いなのか効果を考えて整理して欲しい。扉の開閉をじゃり糸を使って自動にしたり、途中から法華経などのお札を貼ったりと演出効果的な工夫が見られる。 ● 「(急遽演目を変更いたしました)」 袖間口六間で奥行きホリゾントまで使用。光のエリアが約四間ほどに切ってある。そこに、グレーの箱がいくつか置かれ椅子などになる。転換で位置を移動する。明転有り、暗転有りと箱の位置を移動する転換時間がバカにならない。もうすこし舞台で流れる時間を整理して演技とオーバーラップさせるとかテンポアップの工夫が欲しい。色使いをモノトーン調の鈍(にび)色に統一するなど視覚的な調和はある。 (舞台美術家) |
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おとなであるわたしには見えない世がそこにはあるかもしれないということ
劇世界に触れて 永山 智行 |
心を揺さぶる劇を
堀田 良夫 |
| 高校で演劇をはじめ、20年、宮崎で作品をつくってきました。高校演劇の審査員も何度も経験させていただきましたが、初めての全国大会の審査は、完成度の高い作品ばかりで、ここでとやかく言うのは、喩えて言えば、4割近い打率のイチローに向かって、「君はどうして10回の打席中6回も凡退してしまうのか」と言うようなものだなと思うのですが、 それでもとにかく、個人の感想の集積が、その作品の評価であるとするならば、私も観客の中のサンプルの一人として、おずおずと口を開いてみようと思うのです。 開会式後の最初の上演、島根県立三刀屋高校「オニんぎょ」は、まずその視覚的な迫力に圧倒されました。30名近い出演者たちの、コントロールされた身体性、コロスとしてのムーブメント、そして巧みな照明と音のスタッフワークなど。惜しむらくは、このドラマの中で展開される謎解きが、今、その謎解きをしている子どもたち、そしてその周りの大人たちの現在をどう照射するのかが見えなかったことです。 宮崎県立妻高校「トシドンの放課後」は、きちんと関わることを避けている現代の大人たちを静かに告発した優れた戯曲だと思います。「おいはな、子どもを叱る父親じゃ!」という言葉を、女子高校生が引き受けざるを得ないラストシーンは、やわらかい地獄に生きる子どもたちの叫び声のようで、胸が締めつけられる思いがしました。 北海道鹿追高校「平成二十一年度北海道然別高等学校演劇部十勝支部演劇発表大会参加作品」はビデオでの上映となりました。自由に「舞台」を遊んでいる高校生の姿を描いたこの作品は、それだけに「ここに、今、わたしたちは、在る」、そのことのかけがえなさを感じさせてくれました。けれどやっぱり、今、ここで、「舞台」を遊ぶ彼女たちを見たかった。 山梨県立甲府昭和高校「放課後の旅その他の旅」も独特の様式を持った作品でした。放課後の学校を、自分の「ポジション」を探して「旅」しなくちゃならなくなったオザワさんの姿が、人工的な語り口で描かれていくのですが、思わずニヤニヤしてしまう不条理なユーモアがあり、魅力的でした。ただナンセンスは、それに慣れた瞬間から、もっと大きなナンセンスを観客は求めてしまうという性質を内包しているので、ナンセンスにはある種のグルーブ感が必要なのかもしれません。 愛媛県立川之江高校「さよなら小宮くん」客席の笑い声の大きさが、この作品の上演の成功を何よりも物語っていたような気がします。劇場でのこの瞬間を求めて、この作品は生まれてきたのではないでしょうか。けれど、私の中で小さな違和感がやはり頭をもたげてくるのは、予定どおり設計図上で人物が動いていくことの潔癖さと、私たちの生きるこの不条理な世界との乖離を感じてしまうからなのかもしれません。 兵庫県立神戸高等学校「SISTERS」は、原作であるチェーホフの「三人姉妹」を実に丁寧にふまえながら、たった三人の、けれどほんとうに魅力的な三人で演じられていきます。音楽的なアイデアもちりばめられており、静かながらもひきつけられる作品でした。さらに丹念に、顕微鏡で覗くかのように細部にこだわっていくことで、原作でチェーホフが提示した絶望を現代から照射することさえできる、そんな可能性のある作品だったと思います。 「もうちょっとオリジナリティのあるセリフは言えねえのかよ」このせりふが、今、高校生である作者の小林晋作君の中から生まれたかと思うと、多少の作品の欠点を軽く凌駕する圧倒的なリアリティがここにはあったと思います。三重県立四日市高校『Father's day』。誰かの意見をコピー&ペーストして話すのが得意になった大人たち。そんな大人たちの姿を告発する。高校演劇にしかできないこのことを、実に軽やかに描いた秀作でした。 すぐれた舞台作品は、その描かんとする内容と同時にそれをどう描いていくかという方法のたくらみを、その創作の過程で鍛えていくものだと思います。新しく現れた柴幸男という才能は、例えばワイルダーが「ロング ・クリスマス・ディナー」で試した方法をさらに進め、人は生まれ、死んでゆく、そのことの普遍性を身体化してみせました。その方法を受け継いだ青森県立弘前中央高校「あゆみ」ですが、「高校生」たちが演じる「あゆみ」は、だからこそ、この作品の清々しさを強く感じさせてくれましたし、そのことを十分に理解し、身体化してみせてくれた生徒のみなさんが見事でした。 最高ににぎやかで楽しい村田女子高校「とぅらとぅらとぅらとぅらとぅらとぅららー♪」は、そのにぎやかさが、けれど、ある種の空虚感をはらんでいるのが現代的だったと思います。騒ぐことで、懸命にその存在を確かめようとしている、陽気なリストカットとでも言うような空虚感がやがて見えてくるにつれ、時代の深刻さを感じずにはおられませんでした。個々人の俳優の技術の高さは、今大会中でも抜きんでていたように思います。 青春の悔恨を、今まさに高校生であるみなさんが演じる宮崎県立佐土原高校「銀の雨」は、全編、詩情にあふれた佳作だったと思います。やがて大人になった、かつての高校生が、一気に過去へと旅をするファンタジーは、だからこそグイグイと観客の手を引き、見知らぬ場所へと連れていく強引さとスピード感が欲しかったように思います。誠実に舞台に向かう、そのこと自体が作品の魅力となる、そんなことを感じさせてくれる好舞台でした。 43年前の曲、ジャックスの「マリアンヌ」がこんなにも生々しく聞こえてくる舞台に、2010年の今年、めぐりあえるとは思ってもいませんでした。群馬県立前橋南高等学校「黒塚Sept.」です。確かに一見アングラ風にも見えるかもしれませんが、その劇作は古典主義的な巧みさにあふれており、外部が徐々に侵入してくる様子、多様なイメージのきらめき、丁寧に仕掛けられた趣向の数々……、そのどれをとっても実に丁寧につくりこまれた、端正さがありました。そして、その戯曲をリアルなものとして立ち上げたのが、主人公ぶっちを演じた大渕礼奈さんをはじめとする出演者たち。高校演劇の作品で奇跡が起きる瞬間とはこういうことなのだと、その場に立ち会えた感動にただ感謝するばかりでした。 その人を食ったタイトルどおり、あれあれという間に、なんだかわからないところに私たちを連れていったのが、中央大学附属高校「(急遽演目を変更いたしました)」でした。この先には何もない、まつぼっくりしかない、そんな虚無にあふれた世界を遊ぶ人たち。けれどその虚無を知ったあと、私たちはどう明日を生きればいいのか、そのことが本当は一番の問題なのかもしれません。 (劇作家・演出家 |
固定観念が揺さぶられるような刺激的な切り口、審査を忘れ観客になりきれる舞台が少なかった。技術的には素晴らしいが、中身のない仲間うちの戯れ言が多かった。技を見せる、勝ち抜くより、心を揺さぶる演劇を目指して欲しい。体の動きは良かったが、滑舌の悪い学校も多かった。 島根県立三刀屋高校『オニんぎょ』 「(じいちゃん)友達いないよ」「仲間はずれ?」「ほとんど死んでるよ。友達」の会話、ユミちゃんの必殺技の意外性、相撲協会の風刺などが面白かった。脚立で滑り台・シーソー・ブランコ、終幕の大人形なども絵になっていた。ストップモーション、人形ぶりの演出も効果的。歌も上手かった。しかし、技術的には素晴らしかったが、「カゲミー」などの謎解きが中心となり、排除・虐め・拉致などの大事な問題が霞んでしまった。「みんな仲良く」について掘り下げるともっと内容の深い芝居になっただろう。 宮崎県立妻高校『トシドンの放課後』 正論過ぎて効果のない先生の説教、反省の強要、学校謹慎の生徒と不登校の生徒が同室、教師と生徒二人だけの「起立。礼」など、異常な学校がよく描かれていた。反発するあかねと過剰適応の平野の対照的な形象化もよかった。しかし、あかねのような生徒と対話ができ、自分の気持ちをこれだけ語れる平野が別室登校というのは不自然だ。終幕のあかねのトシドンは客席を向き演じるべきだった。トシドンの面を見せるためだけでなく、平野的なものを持つ多くの客に思いを伝えるためにも。 北海道鹿追高校『平成二十一年度北海道然別高等学校演劇部十勝支部演劇発表大会参加作品』 袖からのぞく手、神業の即席卓袱台作り、箱馬製の父、箒を持ったままの宙返りなど、意表を突く演出・アイディアは楽しかった。 しかし、戯言のコントで中身がなかった。「勝手なことしか言わない審査員」を詳述したり、「取材する? 助ける?」から「生きて取材するか、助けようとして殺されるか」に苦しむ戦場カメラマンに飛躍したりすれば深い内容になった。「巨大なメロン=デカメロン」では瞬時に笑えない。「巨大な」でなく「でかい」の方が良い。 山梨県立甲府昭和高校『放課後の旅その他の旅』 現代の高校生を象徴する携帯電話の明かり、「清掃はほどほどに」の放送の意外性、綺麗なコーラス、横歩きの退場、本棚・閉の文字のアイディアは良かったが、中身がなかった。無味乾燥な台詞。形は会話だが、身勝手な独白・決めつけの連続。非人間的で恐ろしい。自閉的な瞥見の旅では自己変革はない。自分づくりもない。具体的な行動を描くべきだった。 愛媛県立川之江高校『さよなら小宮くん』 演技のキャッチボールも上手く、テンポも良かった。体の動きもすごい。特にバスケットの動きには驚いた。「あなたはわたしにはさわやか過ぎるのよ」という戯言、送別会の本当の目的にも驚いた。しかし、ただそれだけ。虚しい盛り上げ、場違いな告白と告白させごっこなどドタバタの連続。不登校のマナブの問題は垣間見せただけ。「下らないのにすっごく楽しい」という台詞通りの一面があり、観客になりきって笑っていたが、何も残らなかった。 兵庫県立神戸高校『SISTERS』 修士課程の長女、派遣社員の次女、高校生の三女の組み合わせに味があった。ベタ明かり、明転での演技、顔が隠れてしまう本の持ち方、遺影で顔を隠す、聞きとれない台詞は良くない。派遣労働、相続、不倫、部活、進学などさまざまな問題が出てくるが、どれも突き詰めずに「わからん」で終わる淋しい劇だった。 三重県立四日市高校『Fathe's day』 面白くて中身があってよかった。父の突然の来訪の電話。乱雑な部屋。セーラー服に脱ぎっぱなしのパンツとセットのズボン、片付け方の呆れる上手さ。そんな笑いから父との対立へ急転。「もうちょっとオリジナリティのあるセリフは言えねえのかよ」「教師口調で説教すんじゃねえよ」など、鋭い言葉は胸に響いた。正しい父にムカつく自分に自己嫌悪、父に謝られるみじめさにも共感。蛯子先生は父の学友の方が良かった。昔の恋人では話が拡散しすぎた。 青森県立弘前中央高校『あゆみ』 エリスポで区切った演技空間、指定通りの役者の機械的な動きなど、演出の目新しさ面白さだけで、中身がない。絵日記的に人生を描いただけで独自の切り口がない。演技の上でも赤ちゃん、妊婦、老人の歩き方などもっと観察して欲しい。質問無言推察相槌という奇妙な会話、言った通りにしたのに怒られる場面は面白かった。断片的な描き方なので想像力で楽しむ仕掛けに徹すればよかった。 村田女子高校『とぅらとぅらとぅらとぅらとぅらとぅららー♪』 幕開き「剣の舞」の曲で興奮させ、はしたなく鼻をほじくり腹を掻き、宙返り、大げさな身振り、訓練されたアクション、台詞の緩急、声質の変化など、色んなスゴイ技を見せ、エネルギッシュな舞台だったが、中身がない戯言の連続。自分たちだけで弾けていた。伝えるものが何もないから弾けるしかなかったのか。 宮崎県立佐土原高校『銀の雨』 過去の出来事も現在も幻想の過去も通俗的。安っぽいロマン。しかし、「あなたの今日に帰らなくちゃ」「今の自分をそんな風に言うのはよくないわ」という言葉の意味は深い。明転ブルー・オレンジ色の傘とベタの地明かりのなど、美しさと汚さが入りまじっていた。通俗的・常識的セリフに対して、鋭い突っ込みが欲しかった。 群馬県立前橋南高校『黒塚Sept.』 大渕の乱雑な部屋、乱れた髪、取り憑かれたような眼差しで始まり、友達と普通に学校の話が展開。終幕ですべては大渕の妄想だと分かるしかけ。弟の無言の出入り、友達を殺そうとする場面が挿入されているが、伏線がもっと欲しい。不登校ではなく、統合失調症として描き、現実と妄想の乖離に苦しむ場面を散りばめれば、迫力ある展開になっただろう。大渕の表情の激変は迫力があった。 中央大学附属高校『(急遽演目を変更いたしました)』 ことばとアクションの面白さはあったが中身がない。「東大入ってビデオ屋の店員になる」というありえない夢も風刺がなければ白ける。「審査員受け」の連発もくどくて笑えない。「立つ鳥跡を濁しまくって去ってやる」を「ヤケクソ」でなく、逆説として描いたら、刺激的な場面になっただろう。 (元滋賀高演協会長 |
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その時代を生きる人間の姿が見たい
杉内 浩幸 |
第56回全国大会を振り返って
二司 元能 |
| 十二本の作品のうち、劇作のうえで顧問の先生が関わったであろう作品は六本。うち三本が上位に入賞した。力のある若い書き手が登場することは大変すばらしいことだが、書き手の側の一方的な世界観の押しつけにならないことを願う。生徒創作にはテレビのバラエティ番組の影響が色濃い。本物の笑いとは何かを考えて欲しい。 以下、少しだけ感想を述べる。 三刀屋高校の「オニんぎょ」は、作者の卓抜な発想で、見る者を懐かしさと不安に駆り立てる。「童話の言葉」の奥に潜む不可思議な世界が、言葉遊びの楽しさと共に詩情豊かに描かれ、その中に現代の子どもたちの孤独が浮かび上がる。しかし、その作者の世界観を、演じる子供たちがよく理解し、それを適切に観客に伝え得たかという点では疑問が残る。さらに、イメージの構築に手を広げすぎたか、「なんとなくこんな感じの話」と云う印象になった。 妻高校の「トシドンの放課後」では、高校生が抱える問題が、「学校」「先生」という道徳的なものとズレていく様が、やや類型的に描かれる。「トシドン」という土俗的な存在がそのズレの中でどのような役割を果たしていくのかが、具体的に舞台から伝わらなかったため、大きな感動にならなかった。 DVD上映となった北海道鹿追高校の「平成二十一年度北海道然別高等学校演劇部十勝支部演劇発表大会参加作品」では、二人の登場人物が生き生きと舞台を演じ、様々な舞台機構を駆使した演出のセンスが光った。ただ、この二人がなぜここまでして「演じたいのか」という動機の不明瞭さや、鴨志田とその父とのドラマの具体性が希薄だったために、人間のドラマとしての感動には至らなかった。 甲府昭和高校の「放課後の旅その他の旅」は、どこかへ抜け出せそうで抜け出せない閉塞的な状況のおもしろさが魅力的な作品。交わされるナンセンスな会話が、コミュニケーションの成立しにくい現代を表しているとか、居場所、役割という言葉が、これもまた現代的な孤独感や閉塞感を表しているとか、様々な見方を喚起した。だが、本当の意味での人間の葛藤がなく、また、主人公があっさりと「居場所」へと向かってしまうラストには違和感があった。 川之江高校の「さよなら小宮くん」は、巧みな劇作と、それをテンポよく完成度高く演じきった役者たちによって、観客を巻き込み、切ないながらも楽しい舞台となった。にもかかわらず舞台全般には平板さを感じた。登場人物の「テンション」が、皆同じであり、人物造形に陰影がなく、ぶつかり合いの濃淡がない。そのことが、笑いの陰の心の闇を見えにくくしてしまったのではないか。 神戸高校の「SISTERS」。日常の何気ない会話が積み上げられていき、次第にそれぞれの人間像が浮かび上がってくる。セリフの聞き取りにくい場面があったが、三人三様、自分の生き方に向かってまっすぐに進んでいく(たとえそれが破滅を予感させたとしても)姿が、切なくも温かく感じられた。ドタバタせず、軽くなく、気負わず、自然にその環境にある人間が、不器用ながらも生きていこうとする姿を誠実に描こうとした姿勢を高く評価したい。 四日市高校の「Father's day」。二人の大学生の会話が一本調子だったのが残念。会話は、筋としては成立はしていても、会話として成立していない。だから、どうしても話に入っていけない。従って、父親に自らの思いをぶちまけるシーンも、その中身の稚拙さが、稚拙なまま表現されてしまい、リアリティをもって伝わってこない。前半で、主人公と友人の関係が重層的な会話のやりとりで立体的に描けていれば、後半のぶつかりあいが、たとえその中身が稚拙であっても、そうか、この主人公は、こうして苦しんできたのかと、共感することができただろう。 青森中央高校「あゆみ」。人の一生を、斬新な手法で見せ付けた。めまぐるしく変化する人生の一つ一つのエピソードを要約的に描くのではなくて、具体的な事件の一つ一つとして描いていくところが秀逸。それぞれの場面に、観客は、「あるある」「そうそう」とうなずきながら感化されてゆくだろう。個々の役者は「人間」を演じない。制服のままで「あゆみ」という人物の、いわば「部分」を演じ、紡いでいく。生身の「人間」を見ることができない物足りなさが、観劇後に残った。 村田女子高校「とぅらとぅらとぅらとぅらとぅらとぅららー♪」。問題を先送りする無責任な高校生の姿を、これでもかこれでもかと見せ付けた。高い身体能力とエネルギー、パワー、まさに現役女子高生! という感じの舞台。しかし、唄い、踊り、高校生の観客はどよめくように笑いを発していたが、私は一度も笑えなかった。こういう笑いがあるのかと考え込んでしまった。正面きって、同じテンションでセリフを叫べば、コミュニケーションは成立しない。だから、人物が描き分けられなくなっている。それぞれの登場人物が抱える固有の悩みや問題が、強弱のある会話や仕草で表現され、その上で、どうしようもなく無責任になっていく姿が示されれば、リアリティのある高校生の姿が浮かび上がっただろう。 佐土原高校「銀の雨」は、叙情的で詩的な温かい作品。夏目漱石の「夢十夜」や、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」などが持つイメージを借りながら、男の生き方と、待ち続ける女の情念を、しっとりと描ききった。但し舞台が動かない。躍動しない。唯一躍動したのが、自転車の少年達が出てくるシーン。従って、登場人物に現実感、存在感がなく、幕の向うの絵をみている感じになってしまって、インパクトを削いだ。人と人のやり取りに、もう少しスピード感があれば、ラストの家族「落ち」にも、現実感が出ただろう。 前橋南高校「黒塚Sept.」。幕開き後の主人公の表情の変化は、この劇のパラレルワールドをすでに暗示していた。引きこもりの心の闇について、一つの答えを提示した作品。趣向が秀逸であるだけでなく、こうした問題がそう簡単に解決するわけではないことを、学校の先生のあまりにも無責任な言葉で象徴させる。原因が「わからない」。まさにこれが学校現場の本音であろう。照明、音響、そして舞台上の様々な仕掛けが、観客の想像力を刺激し続けた秀作。 中央大学附属高校の「(急遽演目を変更いたしました)」は、小人の世界を覗き込むというワクワクさせるような発想だったが、その面白さを観客に伝えきれなかったのではないか。脚本を読んでいない観客は、劇世界の不可思議さについていけない。「世界」が変わったことをもっと明確に示す演出はなかったのか。ラストの「あ、まつぼっくり」というセリフが、まるで落語の落ちのように了解される展開になれば、すべての謎が氷解し、客席は深いため息と納得の拍手で終われただろう。 (宮城県宮城広瀬高等学校 |
高校演劇の夏の祭典第五十六回全国大会が終わった。審査員の一人として十二本の芝居を観た。十代のみずみずしい感性を感じ、高校生でなくては表現できない旬の舞台を楽しんだ。 ・幕下りてなほもどよめく夏舞台 ・ロビーでは興奮冷めぬ観客ら 今年の大会で目立ったのは、演目の決まらない演劇部の内部を扱ったり、引きこもり等個の内面を掘り下げていく舞台が多かったことである。 以下、個々の舞台を振り返る。 島根県立三刀屋高校「オニんぎょ」 暗闇にうっすら浮かぶ人形、童謡が流れる…。幻想的で美しい幕開けである。童謡に隠された謎と老婆の少女期のトラウマを解明していく。テンポの良い展開で飽きない。子供たちの動きも良い。セットも脚立を上手に組み合わせて雰囲気を出していた。 謎解きに、ふんだんに使われる言葉遊びが楽しい。子供の遊びを通してやっているのがよい。老婆の存在感が光る。郷愁を感じながらもドキリとさせられたり、多彩でレベルの高い優れた舞台だった。 宮崎県立妻高校「トシドンの放課後」 不登校の平野と生徒指導上問題を起こしたあかねが次第に心を通わせていく。作品に誠実に向き合い、一生懸命に舞台を作ってきた気持ちが伝わってきた。 原作では平野は男子であるが、ここでは女子になっている。男と女だからこそ感じるぎくしゃくした感じが薄まり、原作の味が少し変わった。 また、トシドンの面の見せ方、別れるときの間の取り方等もう少し細部にこだわればもっと良くなると思った。 北海道鹿追高校「平成二十一年度北海道然別高等学校演劇部十勝支部演劇発表大会参加作品」参加辞退のためDVDによる観劇だった。そのせいか、音声の聞き取りにくいところがあった。 演劇の大会で上演できなくなった部員が観客にお詫びをするところから劇が始まり、舞台空間をうまく使って客を引き込んでいく。鴨志田は存在感があった。観客は生の舞台を観たかったであろう。 山梨県立甲府昭和高校「放課後の旅その他の旅」 クラスで居場所のないともこは周りから促されて保健室、相談室、図書館と放課後の学校を旅するが、なかなか居場所は見つからない。 「ポジション」、「居場所」というキーワード。コロスの動きも場面場面で工夫されていて面白く観ることが出来た。特に図書館で本棚が動いていくところは感心した。 水準の高い舞台と感じたが、ラストは、旅から帰られない子もいるのではと思ってしまった。 愛媛県立川之江高校「さよなら小宮くん」 小宮くんの送別会を開くのだが、実はマナブを励ます会だったことが分かる。最後にひっくり返るというのはこの作者の得意の手法か? テンポ良く話が進み、会話が自然で高校生の日常をうまく描いている。「好きな人」が少しずつずれているのも面白い。 役者はよく訓練されていて、言葉のキャッチボールが出来ている。特に、すみれ役は光っていた。 兵庫県立神戸高校「SISTERS」 三人姉妹の何気ない会話の中にも父を亡くした喪失感とお互いを思いやる配慮がにじむ。自然な会話と展開、三人がそれぞれ明日に向かって生きていく。 役者は三人ともよく描き分けられていた。テンポもよく安定感があった。 残念だったのは、台詞がやや聞き取りにくかったことで、幕に吸われたのだと思う。もう少し小さい劇場で上演すれば輝きを増すのではないかと思った。あと、スタッフワークがやや荒い点も見えた。 三重県立四日市高校「Father's day」 大学生の下宿に突然父が尋ねてくる。友人を引き込んでの三人のやりとりが面白い。父と息子の対立がテーマ。息子への理解のなさを詫びる物分かりの良すぎる父とそれにいらだつ息子という典型的な親子関係が、ストレートに現れていた。客席は笑いに包まれ、最後まで楽しく観ることが出来た。 また、細かいことだが、携帯電話、水洗トイレの音の出し方にも工夫をしてほしい。 青森県立弘前中央高校「あゆみ」 女性の一生をキャスト八人全員で、高校の制服姿で歩きながら演じるという斬新な芝居。このような手法は、高校演劇では見たことがないので驚いた。照明で長方形に区切った中央の空間を上手に使っていた。客席の集中力が凄い。固唾を飲んで観ていた。 想像力を刺激し、想像力で十分芝居について行けた。客の息づかいが舞台に届いたのではないか。お見事でした。 村田女子高校「とぅらとぅらとぅらとぅらとぅらとぅららー♪」 演劇の発表会を控えて演目の決まらない女子部員の狂騒。プログラムの「某女子校に集う肉食系女子」に、すぐに納得した。 最初からテンションが高くパワー全開である。ショートコントが続き、女子演劇部員が能天気にはしゃぎ回る。身体能力も高く、最後まで弾け続けた。勢いに圧倒されてしまったが、逆に何を言いたいのかがやや分かりにくい舞台でもあった。 宮崎県立佐土原高校「銀の雨」 過ぎ去った青春の哀歓が切なく紡がれている。前半の高校時代と後半の大人になってから過去を尋ねる旅の二つに分かれているが、黒子を使って時間の経過を表すところは上手だった。 作者は叙情的な人で、劇中の青春歌の秀歌として知られる栗木京子作「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」がモチーフになっていると思った。 場面の数が多いので、転換は場面をオーバーラップさせてやればよいと思う。 群馬県立前橋南高校「黒塚Sept.」 不登校の女子生徒の妄想を描く。何ともすさまじい迫力を感じる芝居だった。破れかかったポスター、散らかった部屋、物憂げに演劇部の仲間を待つぶっち。常人ではない雰囲気が漂う…。 弟が入ってくる度、仲間の動きが止まる。不安な気持ちに駆られながら徐々に引き込まれていく。 能「黒塚」のイメージを巧みに絡ませながら、時に狂気さえ感じさせる精神世界を見事に描いていた。 中央大学附属高校「(急遽演目を変更いたしました)」 仕掛けの多い台本で、役者は舞台で遊んでいた。ニートの兄と宿題をしている弟。オカルトマニアの兄はお客を待っている。やがて意外な展開が…。 ついていこうとするのだが、小人や未来人の登場、話の巻き戻しあり、時空を越えて話が飛んだりして、なかなか芝居に入り込めなかった。 (中国地区高校演劇協議会顧問) |
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忘れられない宝物
藥丸阿沙美 |
| 三重大会から1年、今年の全国大会の舞台は宮崎でした。演劇部門は、3日間に渡ってメディキット県民文化センターで開催されました。夏の宮崎の太陽のような、明るく元気で熱い17名の生徒講評委員が全国から宮崎に集結しました。 生徒講評委員会は、各ブロックの代表作品をただ鑑賞するだけでなく、上演する劇をとおして訴え、伝えようとしているものを共感的に理解しようとする。劇を観て、単に印象や感想を述べあったりするだけでなく、舞台から受けた伝わりや、感動はどこから生ずるのかを追求し、討議を深める中で、新しい気づきを発見する。この理念に則り、作品から何を学んだり感じたりしたかについて討論し、そこで出た意見を元に講評文を発行するという活動を行ってきました。 生徒講評委員の仲間と5日間、寝食を共にし、同じ屋根の下で全国の演劇を愛する仲間と過ごす日々の中で、自分の中での「演劇」に対する思いが大きく変わりました。全国に演劇仲間が出来たという心強さを感じるとともに、私は本当に演劇が好きなんだということを実感できました。この経験は、今後の人生において、忘れられない宝物としていつまでも忘れることはないと思います。 最後になりましたが、このような素晴らしい機会を与えてくださった、演劇連盟の諸先生方に深くお礼を申し上げます。 (生徒講評委員長 宮崎西高等学校3年) |