タイトル   復刊第90号(静岡大会特集号)Web版

7.爽やかで ほっとする   高校演劇       森  一 生  

 ある舞台(演劇)を観て感動した観客が、どこで創造的になり得るか。---その観客は、芝居を観ることで自分の感性なり考え方なりを大なり小なり〈変えて〉いなければならない。
 その人は、芝居を観るなかで、これまでの自分をどこかで〈否定〉している。つまり自分を〈変える契機〉をそこに見いだしているわけだ。舞台と客席の間に、そういう形で火花が散っている。---そのためには、作家はそのドラマを書くことで、演出家や俳優たちは演出し、自分の役を演じることで、〈これまでの自分と葛藤し〉作者自身、演出や俳優自身が、その創造行為の中で〈自分を変えて〉ゆかなければならない。言い換えれば、そういう〈自己変革〉を内在させていることで、はじめてその演劇は創造行為となり得る---。
 私は、今大会の「審査」に当り、この木下順二の言葉を手がかりとして、作品に内在する、〈自己変革とその創造性〉という視点にこだわって観ようと思っていた。
 こうした私の視点から11作品を総じて言えば、”人間を見る目の温かさ、厳しさが今一歩浅く、薄いのではないか。”だから、作品から立ちあがってくる”時代への批評やそのメッセージ”も、また”現実に生きている人間のしたたかな生活力や生命力”も、突っこんで描ききっていないのではないか。---11作品に共通 して言えるのは、実に爽やかな高校生達が、どの作品にも満ち満ちていて、ほっとする”のだが、例えば言葉を例にとるならば「一生涯かけて、語っても語っても語りつくせない---そうした背景をもつ言葉、(他のだれでもない)この「私」のこの「場所」での、そしてなぜか「今」の〈沈黙〉を打ち破った言葉---が客席には聞こえてはこなかった。だから、(高校)演劇をこんな「楽園」に閉じこめていいのだろうか?---世紀末から21世紀にむけて、実に困難な矛盾にみちている現代を、具体的に呼吸し生きている十七歳が抱える危機と無縁のところで---というのが、私の全体を観ての感想である。  言うまでもなく、教育、高校生のおかれている現実は、問題が多いし、その問題性は深刻で危機的ですらある。その高校生活の身辺に題材を取った作品について観てみよう。
 『いつか僕をさがして』(津曲学園鹿児島高校)は、親の「虐待」を受ける少年(衛)をつれ出し彷徨する高校生(17才)西沢と彼の行動を取材という形で追い見つめるフリライター奥田の対話を通 じ、自分の「居場所」と「存在」を求める姿を描くのだが、四年前からこのテーマに取り組んだ努力、「執念」に感服しつつも、「虐待」という事件の「重さ」に対して、作品づくりの”切りとり方”が甘いのではないか----と思った。
 『ONE CHILD 』(静岡・韮山高校)も同じように「幼児虐待」をテーマとした作品。トリイ・ヘイデン原作「シーラという子」を脚色。親が子を虐待するという現実、見捨てられた6歳の女の子。その子の受けた心の傷。その不信から、心の回復---を描くのだが、その意欲、特に、(原作にふれた部員たちの)どうにかしてこの衝撃を伝えたい-----という意欲・舞台化のエネルギーは伝わってきた。が少女の”心の闇”と”何が”彼女のその闇を”切り択く”契機となったか----の劇的メッセージが不足だった思う。
 『ばくとぼくら』(麻布大附・淵野辺高校)は、演劇部員が夢を食うという”ばく”を持ち込んだ所から展開する楽しい劇。ばくが生きるために夢が必要だという。演劇部の生活ぶり、小道具の扱い方、とりわけばくの動きやばくが逃げこむ箱など工夫、等々舞台化の手法には感心したものの、ばくに与える夢≠ノ対する自分----つまり、小生の冒頭の”自己変革と創造行為”という点ではもの足りない感がのこった。
 『高校羅刹門』(滝高校)は、平凡な日常生活の中で、予期もせず起きた事故?事件?。(カッタ ーナイフで首を切る)をめぐって、その証言が二転・三転する。----真実はなにか---を追求する中で描かれる高校生の人間関係---がテーマである。幕切れで教師が「今となっては、全て藪の中、何があったにせよ、これからも、永久に本当のことはわからないだろう。事故として処理をしなければ、あいつらはもっと人の心を失って、鬼になっていくのかもしれない。と叫ぶ。  教室で「首を切る」事故?事件?が平凡な日常生活の中で起こる異常さ、予期もせず起きる---と映る感性の異常さ。人の心を失って鬼になっていく。のか、人の心を失って鬼になっているから起こった事件なのか---この観念的な人間造形を打破すると、劇がもっともっと高揚すると思う。
 『ホット・チョコレート』(愛媛・川之江高校)は、人と人の別れとか、出会いとかをテーマとした高校生の等身大の生活を描いた秀作。人間の日常的なさりげなさから生まれる心の動き、「さびしい」「かなしい」「つらい」など一言も言わずに、人の切なさを感じさせてしまう巧みさがあった。抑えられたものいい、間、空間の取り方、劇としての無言のメッセージが伝わってきた。
 『そして夕日は、いつかぼくらの放課後を照らす』(福島・石川高校)は、人数の少ない演劇部の部室が取り上げられ、華々しいサッカー部の第2部室となる。演劇の歴史である過去のセット等、オブジェの後始末をめぐっての話である。登場人物も道具も「役立たず」という二重構造性と二人芝居という劇的な難しさに挑んだ所に興味が持てた。
 『好色十六歳男』(兵庫・尼崎北高校)も、高校生の「恋愛」を中心に、等身大の高校生を描く。いつの時代の若者にもあった、そして現代にもある人間関係と「恋愛」を正しく現代高校生版≠ニして、しかも”関西弁”を有効に使ったものとして---。描かれていた。作品としては実に好感が持てた。しかし現実に置かれている高校生の人間関係としての劇的世界は、恋愛関係である彼氏と彼女が「……遅れてるだけかもしれへんけど、けえへんねん。女の子」(彼氏)「それって」(彼女)「どうしよう。」(彼氏)「……」。そしてト書き、「……二人並んで、ゆっくりとベンチへ座る。---どうしよう。どう、しよう……。幕」となっているが、実は客が(そして客であった私も)本当に観たいのは、ここから始まる人間関係と人間そのものではなかろうか---と思った。
 さて、高校の普段の生活では、なかなか取り上げにくい所に題材を求めた作品が四作品あった。
 『唄のある風景』(広島・鈴峯女子高校)は、いわゆる「中国残留日本人孤児」問題を題材に、家族とは?、人のあり方とは?に迫ろうとする。次の世代を担ってゆく若者として、世界史的視点から日本人を見つめて行く大切さや、それを劇化する取組に大いに拍手を送るのだが、題材に負けているのか、「中国人」の思いなど、頭 の中で考えすぎて抽象的であった。
 『ジャンバラヤ』(作新学院高等部)は「家族を演じてみません か---」とインターネット上に現れた奇妙な募集により集まった「家族たち」が模擬「家族」を演じていく。幕開きの設定部は発想といい演出・演技といい非凡で感心した。が、少女の実際の父・母が登場する後半が類型的な平凡な作品になったのが惜しい。
 『山姥』(千葉・船橋旭高校)は、山姥が人間の子を産み、山神の言う掟(「村に捨てればこの子は生きていける」ただし、「子どもを見に行くのはかまわぬ 。里でも言葉をかわせばどちらかの命が、親子と認めあえば、二人の命が、失われる。」)を芯に展開する。その中から母親って、子どもって、愛って、権力って、命って---等々を想像・想起させるダイナミックな力作だった。民話風な創り方、日本の伝統的な劇の手法を巧みに駆使した演出・演技等実に見事で感心した。が、私にはなぜか腹の底からの感動には及ばなかった。
 『THEATERBABA=x(旭川北高校)は老人ホームの住民たちの生活を通 じて、「老い」と「人間」をモチーフにしているのだが、描かれる老人たちが類型的であるため、「BABA」を私たちが演じている?」「BABAが(若い)私たちを演じている?」というゲームとしての芝居≠ニいう作品づくりの意図が客席に伝わらなかった感がある。  劇評とその思いを短い文で端的に表現できない苛苛| |鳴呼。ご容赦を。
       (札幌静修高校)