タイトル   復刊第90号(静岡大会特集号)Web版

9.高校演劇にとって リアリティとは何か?         山本 恵三
 
演劇のリアリティとは何でしょうか。今回の大会は、何よりもそのことを考えさせられました。同時に、これから高校演劇はいかなる方向に進むべきなのか、それを考えさせる大会でした。
 川之江高校のことから始めましょう。最優秀校である川之江高校の芝居のどこが優れていたのか、 それは、何よりその「本当らしさ」すなわちリアリティにあります。他の学校の芝居をどこか嘘っぽいものに感じさせるほどの圧倒的なリアリティがありました。
 もちろん、演劇のリアリティと言っても、舞台上のことですから、観客はそれが偽物であるということを最初から了解しています。にもかかわらず川之江高校の女子高生たちは、舞台上で「本物のように」生きています。
 この点から入賞を逃した他の学校の芝居について考えてみます。
 鈴峯女子高校の「唄のある風景」は、中国残留孤児の問題を扱っています。幼い頃から中国人に育てられた女性が、空間と時間そして文化の大きな隔たりを越えて年老いた母と再会するわけです。丁寧で好感の持てる舞台なのですが、母との再会で、中国語が母国語であるはずなのに流暢な日本語でしゃべり、その仕草に中国の文化が感じられません。つまりそれは、出会いのリアリティを表現できていないということなのです。
 旭川北高校の「THEATER"BABA" 」は、高校生が老人を演じることの難しさを感じさせました。しかし、この芝居は登場人物がみんな魅力的で、それがこの芝居に、嘘っぽさを補って余りある魅力を与えていました。
 韮山高校の「ONE CHILD」は、アメリカの児童虐待を扱ったものです。日本の高校生がアメリカ人を演じるのですから、嘘っぽいのですが、演技が生き生きとしており、始まってみると違和感なく観ることができました。ただし、シーラと先生の関係の変化など劇的な部分が十分描かれなかったのは残念でした。
 鹿児島高校の「いつか僕をさがして」も、児童虐待を扱った作品です。児童虐待の問題を四年前から扱っているということについては、いいことだと思ったのですが、コロスを使う必然性について疑問をもちました。コロスが芝居の「本当らしさ」を失わせる結果 になってしまったのです。おじさん夫婦と陽一との会話が魅力的だっただけに残念でした。
 滝高校の「高校羅刹門」は抽象的・図式的な舞台でした。また石川高校の「そして夕日は、いつかぼくらの放課後を照らす」は、ファンタジーっぽい作りでした。「高校羅刹門」は、引き締まった舞台で、思わず引き込まれましたし、「そして夕日は……」は、演劇部の部室が舞台の、好感の持てる芝居でした。ただ、抽象的な舞台、あるいはファンタジーの舞台にも、いや、そういう舞台こそ、生身の人間の存在と人間関係のリアリティを表現していく必要があります。登場人物の息遣いを感じさせるような部分がどこかに欲しかったと思います。
 最後に、淵野辺高校の「ばくとぼくら」は、最初から最後まで本当に面白い舞台でした。客の方に向かってアピールするような舞台で、演劇の持つリアリティとは別 のところで成り立っていました。そのため、見る人によって評価が分かれる舞台です。ただ、僕は、こんな芝居が生き残って欲しいと思うのですが。
 高校生が普通の高校生の生活を描けば、リアリティを出しやすいということはもちろんあります。しかし、そこを高校演劇が越えることができなければ、高校演劇はつまらなくなると思うのです。その意味で、ここに挙げた各高校の試みを、高く評価したいと思います。船橋旭高校のような稀有な場合を別 にすれば、それは極めて困難です。でも、トライしましょう。高校演劇が魅力あるものであるためには、何より多様な高校演劇が存在すべきだと思うからです。
                        (香川県立高松西高等学校)