復刊92号  WEB版


都道府県だより

宮崎だより 段 正一郎
 のっけから私事で恐縮だが、国語の教師になると同時に、ごく当然のように演劇部の顧問をあてがわれ、それからの腐れ縁でもう二十年以上がたつ。
 コンクールや講習会の夜は、大酒飲みの先輩顧問の先導により、盃が飛び焼酎が飛ぶ、疾風怒濤のひとときを過ごした。台風の中を東京から来てくれたとある高名な演劇人に、「やっぱり、東京の人間には田舎の高校生の現実はわからん。」と暴言を吐いて、なみいる酔漢を青ざめさせた顧問も、今はもう死んだ。
 でも、楽しかったなあ、あの頃。演劇が何かもわからなかったが、教員になってもそういう書生のような時間を持てることが面 白くて、高校演劇から離れられなかったのだ。
 生徒は、生徒で、顧問が大酒飲む頃は、それぞれの学校が自慢の芸を披露しあって、自分たちで交流会を楽しんでいた。早く寝ろと叱っても、こっちが酔っ払いじゃ説得力がない。初めて出会った同好の士と深夜まで熱く語り合っていた。いろいろやかましくない、牧歌的ないい時代だった。
 いくら講習会を開いても、ちっとも演劇のレベルは上がらなかったが、もともと講習会で学べることなど、たかがしれている。だが、そういう濃密な時間を持ったこと、それこそが演劇からもらった宝だったように思う。
 時の流れか、酒を飲んでくだをまく顧問もいなくなったし(私ぐらいだ)、生徒も交流会をしても盛り上がらなくなった。  現代は、「私語」の時代だ。あちこちで、携帯にささやく人々ばかりで、公共の言葉というものを私たちは失いかけている。特に若者にその傾向は顕著だ。人間関係も、微温的で犬のなま噛みのように曖昧だ。しかし、だからこそ演劇の役割もまた大きいと思うのだ。
 よく中央から審査講師をお呼びすると、「せっかく宮崎に来たのだから、宮崎でしか観れないような演劇や方言を期待していました」と、まるでアマゾンに探検に来た冒険家のようなことをおっしゃる方がいる。冗談いっちゃいけない。いくら宮崎だって、毎日リアルタイムで、東京の情報は入ってくる。生徒に、宮崎でしか表現できないもの、と諭しても「何?それ」って感じだ。しかしまた、一方ではメディアの伝えるそれと、宮崎の現実はイコールかというと、微妙に食い違っていることも真実なのだ。地方にいて、地方をことさらに意識せず、でも結果 的に地方の現実を表現できること。おそらく、それこそが普遍にいたる道なのだろうとわかっているのだけれど、なかなか難しいんだ、これが。
 さて、こんな愚にも付かないことを言ってる場合ではない。宮崎の報告をしなければならない。 現在、加盟校は二七校。部はあっても、コンクール出場までに至らなかったり、常連だった有力校が顧問の退職や転勤で、部自体がなくなった所も多い。
 そんな中で明るい話題は、二年前から宮崎市民文化ホールと提携して、「高校生のための演劇技術講習会」が開けるようになったことである。率直に言って、これまで行政というのは、ホールの借用などに関して妨げにこそなれ、理解を示してくれる存在ではなかったというのが実感であった。が、なんと文化行政の最果 てとばかり思っていたこの宮崎で、行政と話し合いながら高校生のための講習会を企画していくという試みが実現したのである。結局、組織を動かすのは人である。理解あるトップとやる気のある担当者さえいれば、かなりのことは出来るのだと、なんだか持ち付けない大金を突然手にした貧乏人のような気持ちの今日このごろである。 (宮崎県高校演劇専門部委員長)