復刊97号  WEB版


都道府県だより
和歌山は 文化果つる国? 梅田 昌吾

 和高演が発足して五五年になる。和歌山から全国大会に出場したのはわずかに二回。もうかれこれ二〇年近く出場していない。その間和歌山の演劇はどうだったのか?
 私は演劇部顧問になってもう一七年。演劇の素人だった私にとって芝居作りのノウハウはもちろん、いい芝居とはどんな芝居かさえわからなかった。しばらくして眠くなる芝居とか長く感じる芝居はよくないんだとわかってきた。その当時、和歌山では顧問対象の劇作研究会が年に数回開かれ、先輩の顧問の先生方から勉強させていただいた。その後、出張で出られなくなってきたこともあって劇作研究会はほとんど開催されなくなってきている。高校演劇のレベルはひとえに顧問の技量にかかっているところがあるのでなんとか顧問の研修の機会を増やしたいと思っている。
 生徒と一緒に劇作りをしてきたが満足のいく劇はほとんどない。人に感動を与える芝居を作るのはとても難しい。技術をいくら教えても人の心を打つ芝居にはならない。顧問の指導の及ばなさを痛感する。いうまでもなく生徒は顧問を満足させるために演劇をやっているわけじゃない。だから何も完璧を目指さなくてもいいんじゃないかと妥協してしまう。妥協を許さない姿勢が大切なのはわかっているんだが。
 顧問として指導する上で何が一番大切かを考える。役者同士の生の息を合わせることというか気持ちを通じ合わせること、それが一番大切だと思うんだがそれがなかなかできない。  我々はしばしばチームワークの大切さを口にする。ところでチームワークとは具体的にはどういうことなんだろうか。生徒にチームワークを強調してもその意味が理解出来ないのではないかと思う。仲間を大切にすること、その程度のことと受け取っているのではないか。チームワークというのは、例えばサッカーの解説者がアイデアあふれるいいプレーだという表現をよくするが、瞬時のうちにボールをどのようにパスしてゴールへつなげるかを互いに言葉を介してではなく、あうんの呼吸で意志を伝え、相手がそれを理解してはじめて実現する、そういう仲間どうしが心を通じ合わせることを言うのではないかと思う。そういうプレーができる時、サッカーの醍醐味を選手だけではなく観ている者も味わうのではないか。演劇においてはそういう演技に芝居とはわかっていてもリアリティを見る。チームワークを大切にするとは決して仲良しクラブを目指すことではない。
 学校というところはとかく成績を競い合う場となりがちである。有名大学への進学率、クラブ活動の戦績等。演劇もその例に漏れない。我々顧問も知らず識らずのうちに演劇発表会をコンクールの対象として見てはいないか。そういう顧問の気持ちが生徒に映ってはいないか。
 全国大会やブロック大会の審査発表時の賞を獲った学校の生徒たちの喜びようや、ブロック大会での講評時、部員一同による「よろしくお願いします。」の声を聞くとき、何というか演劇本来の姿が失われているような気がする。
 こういう意味において和歌山県はこれまで比較的健全であったと思う。われわれ顧問団は絶えずコンクール主義に陥らないよう生徒を指導してきた。この姿勢を今後も持ち続けていきたいと考えている。
 我が校の演劇部は今、新歓に向けて生き生きと練習に精を出している。彼らは下手でも自分たちが納得できる劇を自分たちの手で創ろうとしている。 (和歌山高校演劇事務局長)