復刊99号 福井(鯖江)大会特集号  WEB版


審査員講評
演技・演出について思ったこと  古城 十忍

 大会の講評時に満足な時間がとれなかったので、演技・演出について補足的に書くことにします。
 大阪市立工芸高校『愛すべき蛙たち』は不条理劇だからこそ、会話はリアルに運ぶべきでした。会話の間合い、声の距離感・方向性に不自然な個所が多く、観客としてはそちらのウソっぽさに気持ちがもっていかれてしまい、肝心の「兄が蛙になった」という不条理が際立たないのです。日常生活を切り取って見せるかのように、俳優がごくごく「普段着のままの演技」に徹すれば徹するほど、たぶん、この芝居は抜群に面白くなります。会話も奇妙、設定も摩訶不思議では「何でもアリ」になってしまうわけで、兄が蛙になろうが何の不思議もありません。転換を美しい絵として見せるセンスの良さがあるのですから、シュールに仕立てるのは転換場面と「兄=蛙」の設定のみに徹するという演出プランをお勧めします。
 「リアル感」は「観客を説得する力」に繋がります。そして会話のリアル感を出すには、声の距離感と方向性はとても重要です。
 松江工業高校『ぽっくりさん』は会話のテンポは悪くないのですが、それを支える発声の技術があまりに拙いです。体をこわばらせて口先だけでまくしたてても、セリフはただ乱暴に吐き出されるだけで、どこにも行きません。アップテンポの会話を支えられるだけの発声訓練を日常から積み重ねるべきでしょう。「体を使ってしゃべる」というのは、体に必要以上に力を入れることではありません。声のコントロール、体のコントロール、両方ができて初めて「体は自ずとしゃべってくれる」のです。体がしゃべってくれるようになればしめたもので、セリフに必要以上に頼らなくてすみますから、説明的で過剰な手振りや仕草も自然と減っていきます。
 三本木高校『贋作 マクベス』の俳優たちは、体の力は抜けているように見受けられるのですが、演劇部員のときはそれでよしとしても、「マクベス」の劇中人物のときも体がだらけているので声にも張りがなくなってしまい、せっかくの二役にメリハリがつかなくなっていました。二役をどう演じるのかという演出意図、演技プラン自体があまり検討されていなかったのかもしれません。
 白幕で場面を切り替えるアイデアは秀逸ですから、もっと効果的で多様な使い方をあれこれ考えて、白幕と声のコントロールの両方で次から次に場面をスムーズかつスピーディに展開できれば、芝居は数段パワーアップします。
 ただ、意味なく正面=客席に顔を向けて話すのはいただけません。これもリアル感を念頭に置き、「今、誰に話しているのか」を検証すれば、おいそれと正面を向くことはできなくなるはずです。
 四日市西高校『しこみ〜おいしいラーメンの作り方〜』と、北陸高校『心の向こうに』にも「理由なき正面演技」が見られて残念でしたが、この2校はともに空間の使い方にもその原因があります。美術の配置が下手から上手へ、つまり横方向に限られているため、俳優が自由に動くには前へ出ざるを得なくなっているのです。これでは見た目も平坦で、俳優の動きも平面的にしかなりません。演出には空間を立体的に構成する力が必要です。ポイントは奥行きと高低差の二つ。これを意識して空間を再構成すれば、それだけでずいぶん芝居に膨らみが出ます。
 例えば四日市西の場合、ラーメンの屋台を下手奥にし、テーブルが並ぶ壁を下手奥から上手前へと奥行きのある斜めのラインにするだけで、俳優の動きは自然と変化に富んだ流れになるはずです。演劇部の練習を延々と見ることになる酔っぱらいサラリーマンの存在も奥に配することになりますから、黙って見てるだけの時間が長くても気にならなくなると思います。集団で同じ場所にいながら、延々黙っている人がいるというのは芝居としては結構辛いものがあります。沈黙にはそれなりの理由がなければならないからです。
 最優秀賞となった丸亀高校『どよ雨びは晴れ』は、その集団演技が何より素晴らしい出来でした。例えば、気まずい雰囲気から徐々に活気を取り戻していくプロセスなど抜群で、全員が一体となった「空気」のつくり方はプロ顔負けに手触りでした。それは役者がいちいち自分に引きつける(不要な間を取る)ことなく、場面の流れに乗せてセリフを出すことができているからであり、「相手のセリフをきちんと聞くこと」ができている何よりの証拠でしょう。
 実際、セリフは「言う」より「聞く」ほうが遙かに難しいものです。これができれば小細工のギャグに走ることなく、きっちりシチュエーションだけで笑いもとれます。タイミングを「聞く」のではありません。声の表情から相手の感情を「聞き取る」のです。
 集団演技の点では伊達緑丘高校『りんごの木』も演出の目が細部にまで行き届き、作品の完成度は高いのですが、集団演技が陥りやすい「没個性」になってしまっているのが惜しまれます。俳優一人一人が記号的な「役割」だけで終わっているのです。これは記号的にしか書かれていない脚本の問題が大きいのですが、それでも俳優たちがもっと好き勝手にハチャメチャに演じる部分がつくれれば、品よく収まっているだけの舞台から抜け出してしてより力強い作品に仕立てられたかもしれません。
 優秀賞の宇都宮女子高校『美術室より愛を込めて』と、薬園台高校『Leaving School〜振り返ることなく、胸をはって〜』の主役二人はキャラクターを嫌味なくデフォルメすることに成功しているのですが、ほかの人たちとの演技のバランスがちぐはぐでした。宇都宮女子の場合は没個性に終わっていて、薬園台のほうはあまりにも戯画化されすぎていて、結果的にともに記号でしかなくなっているのです。つまり主役以外の「リアル感」に乏しいのです。
 身延高校『モンタージュ〜はじまりの記憶〜』の主役二人も演技は達者です。こちらは「余計なことをしない」という演技の鉄則を守ることで「子供」や「老女」を形ではなく感情で演じることに成功していました。ただ、それぞれの役での感情の触れ幅がもっと大きければ、という恨みも残ります。ファンタジックな遊び場のような美術がつくれているのですから、例えば子供の場面で、本当に息が切れるくらい走り回るパワーがあれば、終幕の老女はもっと叙情的に生きたであろうと思います。
 首里高校『クラゲクライシス』は登場人物が少ない戯曲で、よく空間を使おうと努力していましたが、美術・照明・音楽を最初から組み入れて芝居づくりに臨んでいれば、舞台空間はもっともっと引き締まります。空間丸ごとをデザインする心意気が欲しいです。(劇作家・演出家)