滋賀便り⑨(最終回)

全国大会が終わった後の、少し気が抜けた日々。いやいや相当に気が抜けた日々。きのう10日ぶりに学校に行ったら、やっぱり学校はあわただしかった。補習をして(意外でしょう?)、面接の練習をして(意外でしょう?)、入試問題を解いて解説して(意外でしょう?)、全国大会関連の片づけと事務仕事をして、翌日の補習の予習をしていたら(意外でしょう?)、あっと言う間に一日が過ぎた。皆さんは意外だと思うかもしれないが、これでも私は立派な教員なのだ、と実感したきのうでありました。(「立派な」は削除可)

 

さて、1週間前の今日は、全国大会初日でした。あ~、そんなことを考えていると、いつまでも前に進めない・・・。

 

そして、もう一つの終わりが。人気シリーズ、オウチシン先生の「滋賀便り」最終回です。夏が少しずつ終わっていく。黄地先生、本当にありがとうございました。

 

「ある演劇部顧問の退職後」

 

私の演劇部顧問経験は30数年に及びます。最初は特に「演劇」に興味があったわけではなく、ただ有る運動部活動の顧問を「逃れたい」の一心でした。

 

ある専門学科クラスの4分の1に及ぶ「演劇同好会」設立希望に「乗った」だけのものでした。

最初は老人ホームの慰問活動であったり、校内の文化祭の発表に限った「演劇ごっこ」に近いものでした。

 

何となく自分の性(しょう)に合わないものを感じながらの「引きずられ顧問」でした。

それが、いつしか演劇にのめり込むようになったきっかけは、寺山修司の脚本との出会いからでした。

 

当時、顧問ではないけれど、かつて演劇部を率いたことのある先輩教師が

「『犬神』だけは演ってみたいと思っていた!」という一声と、積極的な協力から始まったのです。

当時、高校演劇といえば「新劇風」のものしか知らなかった私の先入観を壊すに十分な体験でした。

 

高校演劇に対する固定観念が、高校演劇でも出来るという寺山脚本に出会えたことでした。

寺山修司脚本の叙情性と、彼独特の深さと悲しみが若い当時の私の心を強く打ったのでした。

 

制作段階にさしかかると、その先輩教師は熱心に、演出指導を手がけました。

そして、大道具からメイクに至るまで、自分の「持てるもの」を惜しまず出して、とにかく一生懸命でした。

その様子を傍目で見ていた私は、多くを学びました。

 

特に印象深かったのが、東北特有のある暗さを湛えた『家』というものを、大道具の造形で表現るすという手法でした。特に大がかりに立体的に重々しく表すのではなく、ベニヤ板を使いながら吊り物で表現出来るのだということは驚きでした。

 

役者がつける「面」の持つ効果や、リアルではないけれど役者の動きや発声を様式化することで生まれる有る雰囲気というものに目覚めたのでした。

 

そして、初めての県大会ではその舞台が高く評価されて、いわゆるベスト4に相当する結果を得て、私は益々演劇にのめり込むことになったのです。その後三年くらいで、県の事務局を任されることになり、近畿レベルの会議にも出かけることになりました。

 

80年代当時、小劇場は花盛り!

 

大阪方面に常任委員会で出かける機会が増えました。当然の流れとして、小劇場演劇を観るという誘惑がありました。今なおそのメンバーが大活躍の劇団『そとばこまち』や劇団『新感線』の舞台は刺激的でした。「オレンジルーム」や「扇町ミュージアムスクウェア」には何度も足を運ぶことになったのです。

 

基礎のない顧問の私は、一気に背伸びをしながら多くの芝居をまねながら「高校演劇」を制作することになったのです。顧問の趣味に引きずられながらの当時の演劇部生徒たちは、良い迷惑であったと思います。

それでも、ズーと異色の『おうちカラー』といわれる舞台の制作を続けました。

オリジナル脚本での表現ではありませんから、ズーと二級品です。

 

役者でもなく演出家でもない私は、自らの趣味の傾く台本と、音楽や装置にそのこだわりが強く出ることになりました。

 

そしていきなりですが、退職

 

あんなにも毎年毎年、どの時代にもそれなりに多くの生徒が、マニアックで、いつも肩身の狭い思いをして、それでも一生懸命、自分たちの存在証明を「演劇」に見いだし、高校時代を生きていた「演劇部の生徒」が一人もいなくなるものだということを知りました。

 

演劇は一人では出来ません(たとえ一人芝居であっても…!)

その当たり前の事実を知らされるのが「退職」ということだったのです。

多くの顧問の先生に見送られながら、老境に入っていくのが「退職」という事実です。

 

退職後、私は「地域コーディネーター」という形で小学生を相手にしたり、民生委員として地域に戻り、新たな視点で「地域」を見つめています。

 

そして、「演劇顧問」(装置制作と照明美術)経験をHATAKE(畑)というフィールド(何という同語反復!)に活かしています。

我が家のリフォームにも……。水耕栽培にも。

 

(添付の写真は全く個人的なそれらの様子です)

 

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自作 水耕栽培装置(現在 夏野菜やレタスを育成中)

 

 

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HATAKEのトマト栽培雨避けの構築物

 

 

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自宅玄関ホール(500wSPを仕込み演出)

 

 

「ものを作る」ということは基本的には「個人」のものですが、

「演劇」だけは「同時性」と「集団性」の賜物です。

 

ある「人たち」が、

ある「場所」で、

ある「方向性」を持って、

一定の「時間」を

 

「共有」しなければ絶対に成立し得ないものなのです。

 

退職後そのことをしみじみと実感しています。

 

滋賀便りEND

 

東近江市立湖東第三小学校地域コーディネーター

黄地 伸

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