来ました、オウチシン先生から「滋賀便り」。前回までは稀少ネタ、チョット角度の違う内容でしたが、今日は、直球で来ました。う~ん、オウチ先生、かなり調べて書く方ですね。ちょっと私の昨日の記事と対照的で、このブログ自体充実してきました。
滋賀と言えば、やはり琵琶湖ネタで今回は書きます。それでも、あまり一般的でないネタです。
水資源機構 琵琶湖開発総合管理所のHPには「琵琶湖の特徴」として以下のように書かれています。
面 積 約674㎢ 滋賀県面積の約6分の1
長 軸 63.4㎞ (図の通り)
最大幅 22.8㎞ (図の通り)
最小幅 1.35㎞ 琵琶湖大橋の長さと同じ
湖岸延長 約235㎞ ほぼ大津~浜松間
水面標高 T.P 84.371m 東京湾中等潮位
O.P.B.85.614m 大阪湾最低水位
B.S.L.±0.0 琵琶湖基準水位(ほぼ大阪城天守閣の高さ)
データとして示せば、以上の通りです。
琵琶湖に注ぐ川は100本以上ありますが、主な川は、湖北、余呉湖から流れる余呉川、長浜の「姉川」彦根の「芹川」「犬上川」「宇曽川」東近江の「愛知川」近江八幡の「日野川」野洲の「野洲川」湖西、高島の「安曇川」くらいです。
そして、琵琶湖から流れる川は「瀬田川」1本だけですが、分類的にはこれらすべての川と琵琶湖は大阪湾に流れる淀川水系になるので、琵琶湖は大きなダムのようなものということになるようです。
遙か古代にさかのぼると、信楽方面から瀬田川に流れ込む大戸川の堆積物が瀬田川の川底を押し上げて、自然なダムのようになり、琵琶湖の水位が上がってしまうこともあったようで、ここを浚渫(しゅんせつ)することがかなりの難題であったということも文献を調べるうちに私自身も知ったことです。
明治になって、早くにこの水位を調節する堰を「南郷の洗堰」という形で大きな事業として作り上げたのでした。同じく、京都市の蹴上に人工的に引かれた水路を「琵琶湖疎水」といいます。水は必要なときに不足し、有るときには有り余る厄介なものですから、そのコントロールには古代から苦労してきたようです。現代の「瀬田の洗堰」のコントロール能力は、かなりなものらしく、その84.371mという設定も何時しか決まったものだといいます。
さらに現代では、琵琶湖の水は近畿1000万人以上の飲料水を提供しているわけですから、滋賀の下水道普及率が東京都に次いで第2位ということも納得出来ることです。
琵琶湖には湖底遺跡と、大地震の後が残っている!
先の、琵琶湖の水位と過去の大地震等による災害に関して、興味深い事実と伝説があります。
次に示すのは、説話文学の研究をしている我が妻、百合子が書いた学会報告の前半部分です。
はじめに
千軒伝承とは、過去のある時期非常に繁栄し大集落であった所が、何らかの事情によって現在は衰退または消滅したことを言い伝えるものである。滋賀県の琵琶湖周辺にも何ヶ所か千軒伝承が存在するが、その大半が湖北の湖岸に集中していることがかねてより注目されてきた。しかも、それらの伝承では一様に、昔大洪水や津波が襲い、村が短時間の内に琵琶湖に沈んだと伝えることから、水没村伝承とも言われる。(地図を参照)
この水没村伝承が残る地域については、一九七〇年代より水中考古学の観点から湖底遺跡の調査が実施され、特に近年幾つかの伝承地では、水没の原因となった地殻変動の時期がほぼ特定されてきている。そのことにより水没村伝承が、琵琶湖でかつて何度も大地震による大規模な被害があった証拠として、改めて注目されているところである。
そのような琵琶湖北部の水没村伝承の一つに「阿曽津千軒」の伝説がある。他の伝承の多くが過去の大洪水(または大津波)と村の水没をシンプルに伝えるものであるのに対し、阿曽津千軒伝承は説話的ストーリーを持ち、「阿曽津婆の伝説」として湖北地方で広く知られてきた。本稿では、その「阿曽津婆伝説」を中心に考察を進めていきたいと考える。
「阿曽津婆伝説」とその類話
長浜市高月町西野に伝わる「阿曽津婆伝説」の一つは、次のような話である。
西野山を越えて、琵琶湖岸へ出たところに「阿曽津」という所があります。その昔、ここには、「阿曽津千軒」といって、たくさんの家が立ち並び、多くの人が住んでおりました。この阿曽津の庄にひとりの老婆がいて「阿曽津婆」と呼ばれ、土地一番の大金持ちでありました。阿曽津の庄でこの老婆に金を借りないものはないといわれるほどの豪勢さでありました。(中略–老婆がひどく強欲であるため村人の反感を買い、村人達は老婆を殺すことを決めて)、老婆を捕え、竹簀子に巻いて湖中深く投げこんでしまいました。ところが、たまたま堅田の浦に住む漁師で、俗に「堅田の張子」といっていた人達が、この湖のあたりで漁をしていて、簀巻きにされて流されていた老婆を見つけ、すぐに救い上げ、介抱したが、とても助けるまでにはいきませんでした。老婆は今、まさに息を引き取る苦しい中から、「ようこそ私を介抱して下さった。その恩返しに、私の屋敷に竹林があるが、その竹を切って竿にしなさい。私の一念によって必ず漁舟の覆没の災難から逃れられるであろう。私の霊はとこしえにこの竹林にとどまって、お前さん方を守ってあげよう」と言って息を引き取りました。それ以来、堅田の漁師達は阿曽津の竹を切り竿にして、守り神として使っています。この事件があって間もなく、「阿曽津婆」の恨みが大津波となって阿曽津に起こり、たくさんの家々や家財道具を流してしまいました。土地は荒れに荒れ、村中どうしようかと泣き叫びながら、右往左往の阿鼻叫喚の巷と化しました。しかたなく村人たちは土地を捨て、命からがら山越に逃げ去りました。そして、西野・松野(松尾)・熊野・東柳野・中柳野・西柳野・磯野の七部落に分れて住みつきました。それぞれの字名の最後が「野」で終わっているのはその証拠だといわれています。
(高月町教育委員会編『高月町のむかし話』より)
―以下略―
如何でしょう?
現在琵琶湖が1年に1ミリずつ沈下しているといわれています。
断層のズレによってできた構造湖で徐々にそのズレによって沈んでいるらしいのです。地学時間での変化ですから、我々には実感出来る話ではありませんが……。
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
構造湖(こうぞうこ)
断層や褶曲(しゅうきょく)、曲降(地盤が緩やかに下にたわむ変動)などのように、大規模に地層を変位させる造陸運動(構造運動)によって湖盆が形成された湖。一般に、湖の成因にはこのほか、火山活動、堆積(たいせき)作用などがあるが、構造湖の例には、面積が大きく深度の大きい湖が多い。断層によるもの(琵琶湖(びわこ)、諏訪湖(すわこ)、バイカル湖、死海、タンガニーカ湖)、造陸運動によるもの(カスピ海、アラル海)、曲降によるもの(ビクトリア湖、チチカカ湖)などに大別される。[森 和紀]
その構造湖=琵琶湖がかつて大きな地震を体験して、その折に琵琶湖津波も起こり、湖に沈んだことがあるらしいのです。特に湖北に集中していますが、上の『阿曽津婆の伝説』はそのことと無関係ではなさそうなのです!
こわいです。
「阿曽津」にあった「千軒の集落」が水没したことに因んでの伝説でした。
彦根に自家用車で来られた人は、是非その場所を訪ねたいとお思いになるでしょうが、この地(湖北の再北端、竹生島の東側の断崖=小高い山並みの際にあって、地元の人のみが軽トラックぐらいでやっと近づける場所にあります。)
そして、水没した「阿曽津千軒集落遺跡」は、人を近づけない場所の湖底にあることも謎と神秘を感じさせます。
さらには、その沖(竹生島近くで、琵琶湖の北の半島部近く)は琵琶湖最深部(100㍍)にも近く、その湖底には「葛籠尾(つづらお)沖湖底遺跡」も存在します。
謎が謎を呼び、不思議としか言いようのない事実です。
以下のリンクに飛んで、じっくり読んでみて下さい。東近江市立湖東第三小学校地域コーディネーター 黄地 伸
http://shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/01_hama.pdf
(画像はクリックするとよりはっきり見えます)