第1回全国大会は指導者講習会だった!

いよいよ、いよいよ、いよいよ、大会7日前となりました。来週の今日は、上演1日目です。さあ、どうしよう、どうしよう、と部屋の中を歩き回ってもどうしようもないので、このブログを書きます。 きのう、東京での全国大会のこと、白銀彦太郎先生が第1回全国大会の準備委員で4月に準備会を開いたことを書きました。で、やっぱり気になるのです、第1回全国大会。調べない、ときのうは書きましたが、やっぱり調べるのです。こんなものがありました。 記念誌「全国四十年史」 タイトル通り、全国の40周年誌です。こういうのって、編集するのすごく大変だけど、後になってすごく役立つんですよね。この表紙の写真の舞台わかりますか。千葉県立船橋二和高校の「じゃがいもかあさん」です。第39回全国大会・浦和市文化センターでの舞台です。撮影は、高校演劇の写真を撮り続け、名舞台の記録を残してくれている、埼玉県の郷原康一先生です。関東の40周年記念誌でも大変お世話になりました。「じゃがいもかあさん」はこの大会の最優秀作品ですね。私、顧問になった頃、船橋二和とは同じ地区でしたから、全国に行く作品を、地区大会の頃から観てました。まあ、なんて言うの、すげ~なあ、と。顧問の土田峰人先生(現・松戸馬橋高校)とは今また同じ松戸の地区にいます。相変らす、すげ~ことやってます。 さて、第1回の頃のことを読んでみます。内木文英先生の回顧録によると、第1回全国大会には「北は北海道から南は沖縄まで600人が集まり」内木先生は感激の演説をぶったそうです。東京で、全国大会をやって、組織を作ろうと言い始めたのが、その2、3年前。とてもできない、と思っていた当時20代の内木先生をひっぱった(内木氏曰く、「ひきずりまわした」)のが、自分より14才年上の阿坂 卯一郎先生、榊原政常先生、福田薫先生、豊博秋先生の40代カルテットだそうです。何かその姿が目に浮かぶようですね。内木先生の文章はまるで物語を読んでいるようで引き込まれます。全国のドラマの大会にこぎつけるまでが、またドラマだったのです。 さて、面白いのは、私たちが第1回全国大会と呼んでいる、その正式名称は「指導者講習会」だった、と言うことです。(白銀先生もそう書いていました。) 「指導者講習会」・・・つまり、素材上演された舞台を専門の演出家に観てもらい、実際舞台で指導してもらう、と言うことだったのです。関東の記録にもよく出てくる素材上演とはそういう意味だったのですね。他にもプロの舞台美術家、照明家、音響家が熱心に指導してくださったそうです。素材上演校は全て東京。それが第1回から第3回まで続きました。第4回、いよいよ千葉、埼玉、愛知が加わります。観客だけでなく、上演も関東の枠をついに越えたのです。そして第5回、さらに大阪、兵庫、福岡と関西、九州が加わっていきます。このどんどん加わっていくという感じ、ダイナミズム、これがいいんです。勢い、とはこういうことです。ドラマです。遠くの地からやってきた高校生のドラマを観客たちは温かく、熱烈な拍手で迎えたことでしょう。(当時は福岡から列車でやってきたのでしょう、かなりの時間ですね。) 昭和34年の夏のことです。私が生まれるまであともう2年。そして「指導者講習会」と言う名称、来年60回を迎える今でも続いているのです。深い歴史のある名前なのだなあ・・・ 記念誌「全国四十年史」1.2 記念誌「全国四十年史」3.4.5 (全国高等学校演劇協議会編 「全国高等学校四十年史」より)
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