8日前です。けっこうやることがたまってきて、あれもしなくてはいけない、これもしなくてはいけない状態です。おかしいな、地道に計画的にやってきたつもりなのだけど・・・。
さて、評判のいいシリーズ、オウチシン先生の滋賀便りです。渋いネタと味わい深い文章で、滋賀の魅力を語ってくれます。前回の琵琶湖編なんて、私なんか「琵琶湖は大きい。芦ノ湖より大きい。」としか書けないものなあ。
というわけで、今日も渋ネタ全開です。
今朝(19日)は、午前中かかかって、地域の公民館周辺の草取り作業と、先だっての台風11号で流れを遮った枝や枯れ木の始末をする作業に出ておりました。この水路というのは「愛知井(えちゆ)」と言いますが、その水路は愛知川本川の途中から湧き出る伏流水を利用しながら、さらに愛知川の上にある永源寺ダム湖から人工的に引いた農業用水です。
このネタだけでもかなり書くことがあります。
この愛知川には古くから、10本もの人工水路が左岸と右岸に形成されています。そして水田耕作に大きく寄与してきた事実があります。
そして、このうちの一つの「愛知井」は、そのできあがった時期が少なくとも八世紀以前であることも判っております。奈良の東大寺文書にその記録があるらしいのです。当時勢力を持っていた「東大寺」と「元興寺(がんごうじ)」がこの近江一帯を荘園として支配していた頃、互いに勢力を競い合いながら領地にしていたらしいのです。
琵琶湖に注ぐ愛知川は、急峻な場所から流れ出て、平地に一気に流れますから、かなりわかりやすい扇状地を形成しています。そのため、地理学者や、地質学者にとってはかなり判りやすい典型地であるらしいのです。
愛知川本流の水は一気に琵琶湖に流れ、かなりの水が地下に潜ってしまうのに、近江盆地の平らな肥沃な土地は水田耕作には適していない。その地形に目をつけた第三波(といわれる)の「帰化人」が大陸からこの地にやってきて、彼らの指導によって、溜め池や人工水路が開削されたというのです。以来、『近江米』はずっとブランドであったのですが、現在では他の地にドンドンその名を持って行かれている様子は、文化状況(もちろん演劇も…)やその他の地味な「滋賀」の様子が物語っています!
ダム水路の整備によって、もちろん三面張りの川になってしまっていますが、その水は古代のままに愛知川本川の伏流水を水源とした部分と、ダム湖から引かれた水とが混じった形で流れています。
「伏流水」と「ダム湖の水」何か暗示的です。
東近江市立湖東第三小学校地域コーディネーター
黄地 伸